ささみねじょう
(ささみねじょう)

                 浜松市天竜区春野町豊岡        


▲ 中央の山地が城址で、気田川の湾曲部に位置する要害である。

周北の雄、
       天野氏の古城

 周北とは遠州周智郡の北部をさす。
 鎌倉期、伊豆国田方郡天野を本貫とする天野氏が遠江の山香荘の地頭となったのが、周北の地に覇を称えることになるはじまりであった。
 実際に天野氏自身が周北の地に居を構えるようになったのは南北朝期の頃であったようだ。天野周防七郎左衛門尉経顕がその初代とされる。南朝支配の実行者としての来住であった。
 経顕は元弘三年(1333)に後醍醐天皇から綸旨を受け、知行地を保証されている。そして、子の周防三郎経政とともに新田義貞の軍に参じ、稲村ヶ崎の戦いに加わっている。
 その後、惣領家は北朝方に転じ、犬居、大峯、平山の三ヵ村を本領とする国人領主へと成長していったのである。
 天野氏の本拠地は通常犬居城とされているが、ここ篠峯城が本城であるとする見方もある。それは犬居城が武田流の築城様式であり、篠峯城にはそれ以前の古い築城手法が見られ、さらに室町期の青磁器が出土してる、というのがその理由である。
 犬居城が武田流築城であるとすれば、それは武田氏の影響を受けるようになった天正初年頃のことである。無論、それまで犬居に何も無かったわけではない。それまで存在していた城砦を武田式に改築したものであることはいうまでもない。しかも武田が犬居城に手を加えたということはそこが天野氏の政経の中心であったということでもあろう。しかし、南北朝の昔から犬居が政経の中心地であったかは今後に研究の余地を残している。
 「掛川誌稿」には天野安芸守虎景、その子宮内右衛門勝秀(藤秀)、その甥和田河内守秀長が篠嶺城に在城していたとある。虎景、藤秀は天野氏の惣領である。また、「三河物語」には天正二年の家康による第一回天野攻めの際には気田郷から攻めたとある。
 これらのことから、篠嶺城の存在が単なる支城程度のものではなかったということになりはしないだろうか。
----備考----
画像の撮影時期*2004/06