浜崎居館
(はまざききょかん)

            浜松市北区三ヶ日町三ヶ日     


▲浜崎居館は戦国期に浜名氏の有力家臣であった安形(県)氏の屋敷地であった。
(写真・居館跡を示す説明板の立つ辺り)

中之郷の三日池長者

猪鼻湖周辺一帯に勢力を張り、佐久城を居城とした浜名氏の有力家臣として知られるのが安形氏である。安形氏は県氏とも名乗っており、浜名総社神主の県氏の裔である。

室町時代中期(1500頃)、県但馬守正明が当地に屋敷を構えていたことが知られている。その後、出雲守正綱そして刑部左衛門正秀と続いた。刑部左衛門正秀は「安形」を名乗った。また、出雲守正綱の弟の伊賀守正道も「安形」を名乗り、駒場に屋敷を構えている(安形伊賀守屋敷)。

ところで、安形刑部左衛門についてはこんな話が伝えられている。刑部左衛門の漁法は池の水を汲み出し、かえ干しにして魚を拾い取るやり方だった。ある日、刑部左衛門は村人を動員して川崎神明社(浜名惣社神明宮)の西の大池のかえ干しに取り掛かった。ところが三日三晩かかっても池の水は少しも減ることがなかった。これ以上無益な労働を村人に強いることはできないと判断した刑部左衛門は直ちに作業を中止した。この後、人々は刑部左衛門のことを「中之郷の三日池長者」と呼ぶようになり、やがて「三日の長者」そして「三ケ日」となったというのである。

したがって「三ケ日」の地名は慶長の頃(1600頃)から呼ばれるようになったものでそれまでは「中之郷」と呼ばれていた。さらに古くは「英多(あがた)」であったという。

永禄十二年(1569)、佐久城主浜名頼広が籠城中に出奔して城は開城降伏した。安形刑部左衛門も籠城の将士の中にいたはずであり、開城後は徳川の麾下に参じたものと思われる。

慶長十年(1605)、将軍上洛のために浜崎御殿が造営されたと言われる。この年、徳川家康は征夷大将軍を秀忠に譲って大御所となった。


▲周辺は宅地化して遺構は見られない。住宅の敷地内に説明板が立てられている。

▲説明板。

▲刑部左衛門がかえ干ししようとした池。当時はもっと大きかっただろう。現在でも水が湧き出ている。

▲三日池の説明板。
----備考---- 
訪問年月日 2023年4月20日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
「三ヶ日町のむかしばなし」他

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