堀江陣屋
(ほりえじんや)

                   浜松市西区舘山寺町         


▲ 堀江陣屋は戦国時代に庄内半島(浜名湖岸東部)を基盤
として勢力を誇った大沢氏が江戸期に構えたものとされる。
(写真・史跡標柱の立てられている付近。正面の山は御陣山。)

虚偽の立藩と万石事件

 戦国時代、堀江城主として浜名湖東岸に威を張った大沢氏は永禄十二年(1569)三月、徳川家康の軍勢を相手に籠城戦を展開していた。
 城主大沢基胤は遠江の大半が家康に降った後も今川氏に属し続けていたのである。戦いは籠城側の大沢勢が攻め手の徳川勢を翻弄して優位に進めていたが、いかんせん掛川城に逃げ込んで行き場を失っていた今川氏真からは何の音沙汰もないのである。後詰の期待が無ければ籠城戦はいずれ破綻する。一方の掛川城攻めの陣頭指揮を執っている徳川家康もあせっていた。駿河を席巻した武田信玄の軍勢が遠江に進攻していたからである。掛川城と堀江城の二方面に時間を費やしている場合ではなかった。家康は大沢基胤に所領安堵を条件に和議開城を伝えた。基胤は「崩壊したも同然の今川には十分の忠義を尽くした。これからは家康殿を主と仰ぐべし」と今川氏真を見限り、四月十二日に和議を受け入れた。
 基胤は子の基宿(もといえ)と共に徳川家臣団に組み込まれ、各地を転戦して戦功をあげた。慶長十四年(1609)、基宿は従四位下右近衛権少将、次いで権中将高家に列せられた。
 元和元年(1615)、基宿、基重父子、大坂夏の陣に参陣。この頃、堀江陣屋が整備されたと言われているが定かではない。
 陣屋跡は小字「旧陣屋跡」と呼ばれている所で、御陣山の南側にあたる。現在は住宅や旅館、駐車場などとなっていて陣屋の面影は残っていない。戦国時代の堀江城の西側低地にあり、当時から城主の居館があったのではないかと思われるが、その点についても定かではない。ともかく大沢氏の所領三千五百石ほどを管掌する役所は必要であった。大沢氏そのものは江戸住まいであったから国元の行政は家老の安間氏らが取り仕切っていた。
 江戸期を通して大沢氏は高家として基重の後、基将、基恒、基隆、基朝、定寧、基之、基昭、基暢と続き、最後の当主基寿(もとひさ)へと続いた。
 幕末の慌ただしい中、基寿は高家としての役割をこなしていた。文久二年(1862)、和宮降嫁のお供役。文久三年(1863)、将軍上洛のお供役。慶応三年(1867)、大政奉還の建白書を朝廷に伝奏。といった具合である。
 慶応四年(1868)四月、江戸城開城。徳川家を相続した家達(いえさと)は駿府に七十万石を与えられ、駿遠の大名・旗本は家達の所属となった。

 この時、地領報告の命を受けた大沢家では一万六石と上申して堀江藩を成立させた。表高三千五百石、実高五千五百石であったが湖岸埋立予定地を見込んで上乗せしての上申であった。万石以上の大名・旗本は華族に列せられることになっていたから家臣らが主君基寿のために虚飾の上申を行ったのではないかとも見られている。
 明治二年(1869)、基寿は版籍奉還により堀江藩知事となり華族に列せられた。明治四年(1871)、堀江県知事となる。この間、家老の安間又左衛門は虚偽の上申を正すための後始末に奔走していたが、家中は乱れて又左衛門は生命の危険にもさらされるほどになっていた。ついに又左衛門は新政府に訴え出て奸臣どもの専横を正すことにした。
 明治四年(1869)十二月三日、判決が下された。基寿は士族に下し、禁固1年。旧臣四人は禁固1年半、又左衛門にも責任ありとして禁固1年が申し付けられた。
 五百年続いた大沢氏の最後が虚偽の万石事件であったことは実に残念なことであるが、これは日本が封建国家から近代国家へと変革しつつある中で起きた小領主の哀れな一面を物語ったものといえようか。


▲陣屋跡に立てられた「堀江陣屋跡」の標柱。駐車場の片隅に立っている。

▲陣屋跡周辺は住宅やホテルが建ち、遺構は見られない。

▲法泉寺(湖西市)の山門。陣屋の門を移築したものと伝えられている。

▲山門前の説明板には堀江の大沢基寿の門とあり、移築前の建築年次は不詳、長屋門形式とある。
----備考---- 
訪問年月日 2013年10月27日 
 主要参考資料 「古往今来」他

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