八幡平城
(はちまんだいらじょう)

                   御前崎市新野           


▲ 山麓の想慈院から見た八幡平城址。右端に登城口の標柱が見える。

謎の古城

 遺構の残存状態が良好なことで知られる八幡平城(新野古城とも呼ばれる)であるが、その歴史に関しては殆んど謎に包まれている。城主についても土豪新野氏の居城跡ではないかとこれまた推測の域を出ないでいる。そして新野氏の歴史もまた判然としないのである。このことが八幡平城の謎をさらに深いものにしていると云えよう。
 新野氏の名が史料に初めて登場するのが「吾妻鏡」で、建久元年(1190)源頼朝上洛の随兵三十四番として浅羽三郎や横地太郎(横地城、四代・長重)とともに新野太郎の名が記されている。建久六年の東大寺供養のための頼朝の随兵のなかにも横地太郎(長重)、勝田玄蕃助(勝間田城、三代・勝間田成長)とともに新野太郎の名が見える。
 横地系図によれば三代長宗の次子が新野に移り、土地の名を名乗って新野太郎と称したことになっている。すなわち新野氏は勝間田氏とともに横地一族として東遠に根付いたものと云える。先の横地太郎、勝田玄蕃助は、源平合戦の際には源氏方の武士として活躍しているが、名こそ記されていないが新野太郎も平家追討の戦いに加わっていたことは間違いないであろう。
 建暦三年(1213)、鎌倉で和田一族の乱が勃発。府内にいた新野左近将監景直は和田方の勇士朝夷奈義秀と戦って討死したことが記されている。これ以後「吾妻鏡」には新野氏の名は出てこない。他記録には承久三年(1221)に新野右馬允(「承久記」)、正慶二年(1333)に新野四郎朝繁(「蓮華寺過去帳」)の名が記されているのみである。ちなみに正慶二年は鎌倉幕府が滅亡した年であるが、新野氏が関わっていたかどうかは不明である。
 さて時代は南北朝争乱の世へと移る。戦闘拠点としての山城が急速に発展するのもこの頃からであろう。八幡平城は新野氏と同族である横地城、勝間田城との類似点が多いと云われており、この時点での新野氏は健在であったとみられる。
 南北朝の戦いはここ遠江でも井伊氏(井伊谷城)を中心にして宗良親王を迎え、足利幕府軍と激しい戦いが展開されたのであるが、新野氏の名はそのどちらにも出てこない。ただ気になるのは八幡平城の南西約二`に釜原城と呼ばれる城があり、南北朝初期の戦いで落城したとの伝説があるが、この当時の城主に新野氏の一族をあてる説もあるようだ。このあたりに新野氏が史上から姿を消した謎を解く鍵がありそうである。
 それから約百年後、新野左馬助という名が現れる。これは今川系新野氏と呼ばれるもので、今川国氏の孫俊国を祖とするとされている。その子孫が土豪新野氏の名跡を襲ったということであろう。一般的にはこの新野氏が戦国期の今川系新野氏であり、それ以前の新野太郎系新野氏とは分けて論じられている。
 八幡平城はこの今川系新野氏によってその規模を拡大していったものと思われる。そして新野新城と呼ばれる舟ヶ谷城とは尾根続きでもある。
 しかしこの今川系新野氏も永禄七年(1564)、当主である新野左馬助親矩が引馬城の戦いで討死して途絶えてしまうのである。
 天正期には高天神城を支える武田方の陣城のひとつとして機能したようであるが、その名は記録に出てこない。ただ、堀切りなどに武田流山城の形跡がうかがえるのみである。

▲ 堀切跡。

▲ 本郭跡。この平坦地を八幡平と呼び、城の名となっている。

▲ 「釜原城」跡。「かまっぱら」と読む。現在は茶畑と化している。⇒地図

----備考----
画像の撮影時期*2006/12
釜原城は2007/06