惣勢山砦
(そうぜいやまとりで)

      掛川市中     


▲惣勢山砦は天正二年(1574)に武田勝頼が高天神城を
攻める際に総軍勢を率いて布陣したと伝えられている。
(写真・砦跡の南麓に建てられた碑と黄矢印の山が高天神城跡)

勝頼、総勢を率いて布陣す

高天神城の東約1.5kmの丘を惣勢山砦と呼ぶ。この丘の南麓に石碑が建てられている。碑面には「天正二年武田勝頼が高天神城攻めの折、ここに惣勢の本陣を置く」と彫られている。

高天神城をめぐる徳川と武田の争いは永禄十一年(1568)十二月の武田信玄による駿河攻略の直後から始まっていた。信玄は重臣秋山信友を遠江に進出させ、在地の国人土豪衆の把握につとめた。高天神城主小笠原長忠はここで武田方に属したが、その直後に徳川家康からの誘いを受けて徳川方に従っていた。

元亀二年(1571)には武田信玄が遠江侵攻に乗り出し、高天神城近くに軍勢を進めて威嚇している。元亀三年(1572)、信玄は三方原合戦で家康を打ち破り、三河へ進軍したがここで病没してしまった。

信玄の後を継いだ武田勝頼は天正二年(1574)五月、遠江へ侵入して塩買坂に陣取り、軍を進めて高天神城の攻略を開始した。勝頼は織田・徳川の援軍が現れるかしばらく様子を見ていたが、織田・徳川に動きがないとみると本軍を進めて高天神城の南側国安村に布陣した。

その後さらに陣を進めて高天神城の東側中村に移動した。そして毛森村の山上に兵を配したという。それが後に武田勝頼が総軍勢を率いて布陣した所ということで惣勢山と呼ばれるようになったというのである。

武田勝頼は時々ここから高天神城外の最前線を見回り、「早く攻め掛かれ」と檄を飛ばしたという。その後の武田勢による力攻めによって高天神城も落城寸前となり、ここで勝頼は城主小笠原長忠へ開城降伏を促した。長忠はこれを受け入れて高天神城は武田方の城となった。

現在、砦のあったとされる惣勢山は藪化が進み、踏み入るのも困難な状況と思われる。先の石碑のところからは高天神城跡の山々が望見でき、武田勝頼も同じ風景を見ていたであろうと思うと感慨深いものがある。


▲砦跡の南麓に建つ石碑。

▲石碑の北側の丘が砦跡とされる。

▲砦跡の南麓道路沿いに立つ標柱。

▲西側から見た砦跡の惣勢山。



----備考---- 
訪問年月日 2023年10月19日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
「高天神城実戦記」他

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