苅安賀城
(かりやすかじょう)

:            愛知県一宮市大和町苅安賀下火口       


▲苅安賀城は織田信長の赤母衣衆浅井新八郎が居城として築いたものである。
新八郎は幾多の戦場で活躍したが、後を継いだ田宮丸は若くして非業に斃れた。
(写真・城跡に建つ城址碑。)

信長の赤母衣衆浅井氏の居城

 永禄二年(1559)、かつて守護代であった織田伊勢守の岩倉城が織田信長に攻められて落城した。それから二年ほど経た永禄四年(1561)頃に岩倉城跡から東9kmほどの苅安賀村に浅井新八郎政貞(政澄、政高、賢政ともいう)が城を構え、岩倉の寺院などが苅安賀に移されて城下町が整備された。
 浅井政貞は信長麾下家臣団羨望の的である赤母衣衆に抜擢された武将である。出自は近江浅井氏の一族とも言われるがその詳細は明確でなく、単に尾張浅井氏と記されることが多い。永禄十一年(1568)の信長の上洛戦に際しては佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉らと共に箕作城攻めに参加。元亀元年(1570)には比叡山攻めに参陣。元亀二年(1571)の第一次長島攻めでは佐久間信盛と共に大鳥居砦攻めに加わり、天正二年(1574)の第三次長島攻めでは木下秀長、丹羽長秀と共に早尾口の先陣を勤めて篠橋にて一揆勢を蹴散らす働きを見せている。
 天正二年(1574)頃からは信長の嫡男信忠に尾張衆として仕え、家老として一万三千石を食んだという。天正六年(1578)、播磨攻めに際して林通勝らと共に砦の警備にあたったが、その後は記録が無いという。病床に伏したのであろうか。天正九年(1581)、この年に浅井政貞、没すという。
 政貞没後、嫡男田宮丸(長時)が家督継承し、若干十六歳にして苅安賀城主となった。父同様、織田信忠に仕え、天正十年(1582)の本能寺の変後は織田信雄に仕えた。信雄のもとでは若いながらも、岡田重孝(星崎城主)、津川義冬(松ヶ島城主)と共に家老の地位にあった。
 天正十二年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の対立が顕わとなる。この時、信雄は秀吉に内通したとして三家老を長島城に呼び出して殺害してしまった。田宮丸、わずか十九歳で非業に斃れてしまったことになる。この事件を機に信雄と秀吉の衝突は必至となり、小牧・長久手合戦へと突入するのである。
 三家老を謀殺した信雄はそれぞれの居城に対して兵を差し向けた。苅安賀城には森勘解由(久三郎とする資料もあり、同一人物か)の一隊が攻め寄せ、落城してしまった。落城後は森勘解由が城主となり、対秀吉戦に備えて城の補強が行われた。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めに際しては小早川隆景が清州城に入城して尾張の警備にあたり、手兵五百人を苅安賀城に派遣したことが伝えられている。
 慶長五年(1600)、関ケ原合戦。森久三郎は東軍福島正則の麾下に属して参戦、戦死した。苅安賀城はその後ほどなくして廃城となったものとされている。
 なお、田宮丸の母は謀殺後も苅安賀村に住し続け、村人から「苅安賀殿」と呼ばれ、尾張藩主徳川義直に厚遇されて生涯を全うした。


▲城址碑。

▲城址碑の隣は自動車学校である。本丸はこの自動車学校の北側部分であったようだ。

▲城址碑周辺。土地整備が進み、遺構は消滅、城址碑が建つのみである。
----備考----
訪問年月日 2015年2月21日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「愛知県埋蔵文化センター調査報告書第3集「苅安賀遺跡」(PDF版)」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ