前田城
(まえだじょう)

:            愛知県名古屋市中川区前田西町1       


▲前田城は土豪前田氏の居城で、織田信秀に属していた。また、前田利家誕生の
地としても知られている。加賀前田氏の本家筋にあたると言われている。
(写真・城址に建つ前田速念寺の山門と城址碑。)

前田氏発祥の城

 前田氏は尾張国海東郡の土豪で代々與十郎を称し、ここ前田城を居城としていた。ここから南2kmほどの所に下之一色城を有して近在に勢力を張っていたようである。與十郎種利は織田信秀に属し、信秀の重臣林秀貞の与力となっていたとされる。
 天文十三年(1544)には前田城の東2.5kmほどに荒子城を築いたと言われているので、それなりに織田家中にあって功績を上げていたのであろう。息子の長定(種定)の代になっても林氏の与力であったようである。
 弘治二年(1556)、織田信長と弟信勝(信行)の対立から稲生原合戦が起きた。この時、與十郎長定は信勝擁立派の林秀貞の与力であったから信勝方として合戦に参加したのであろう。このため、勝者信長は長定から荒子城(二千貫)を取り上げ、前田蔵人利昌(利春)に与えたと言われる。蔵人利昌も前田氏の一族であるが本家筋の長定との関係はよく分からないようだ。この利昌の子が利家で、稲生原合戦では信長の側にあって戦功を上げている。
 その後、前田城の長定は佐久間信盛と子の信栄に仕え、本能寺の変後は織田信雄に属した。
 通説では、前田利家は天文七年(1538)に前田城で誕生し、天文十三年(1544)七歳の時に荒子城に移ったとされている。しかし、與十郎家との関わりに関してはよく分からないようである。
 天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦時、長定は前田城(下之一色城とも)を子の長種に任せて織田信雄の指示で佐久間正勝(信栄)の守る蟹江城の守備についていた。この当時、城将の佐久間正勝は伊勢国峯城の守備に出張して蟹江城に居ず、叔父の佐久間信辰が城代となっていた。長定は羽柴秀吉方の滝川一益の誘いを受けて秀吉方に内応することを約してしまったのである。

 六月、秀吉方の滝川勢と九鬼水軍が蟹江城に迫ると、長定は城門を開いて滝川一益とその軍勢を引き入れ、佐久間信辰を追放してしまった。蟹江城の異変を知った徳川家康と織田信雄は直ちに奪還の行動を開始したため、小勢の滝川一益は守りきれずに降伏開城してしまったのである。
 滝川一益は許されたが長定は許されず、船で退去するところを家康の命により妻子共々討ち取られたと言われている。
 前田城と下之一色城も同時に攻められ、留守を守っていた長種は降伏し、加賀前田家を頼って落ち延びた。
 前田城は破却され、後に前田利家の叔父利則が出家して意休と号し、城跡の速念寺初代となった。


▲速念寺本堂脇にある「城主前田與十郎之墓」の碑。

▲山門前の「前田城址」碑。

▲山門前に掲げられた由来書。

▲本堂。合掌しているような、または兜を連想させる。

▲本堂脇の城主前田家古墳。

▲境内に建てられた「中部石川県人会」の碑。

▲県人会碑の横に建つ「前田古城趾」の碑。
----備考----
訪問年月日 2015年4月18日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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