守山城
(もりやまじょう)

              静岡県伊豆の国市寺家        


▲ 守山城は堀越御所の詰城であったと言われているが、残されている堀切な
どの遺構は天正(1573-92)末期のものと見られている。(写真・守山城主郭)

公方の詰城

 長禄二年(1458)に鎌倉公方として関東へ向かった足利政知が鎌倉入りを果たせず、伊豆の堀越に御所(堀越御所)を営んだ。このため政知は堀越公方と呼ばれた。

 足利政知は延徳三年(1491)に没した。堀越御所の詰城だったというこの守山城がいつ頃整備されたのかは分らないが、それほどのものではなかったと思われる。この年、あるいはこの数年後に堀越御所は伊勢盛時、後の北条早雲に攻められ、政知の後に公方の座にいた長子茶々丸は自決して果てた(別説あり)。この時に茶々丸が立て籠もった場所がこの守山城であると言われている。城とはいえ、たいした防御施設を備えたものではなかったのであろう。茶々丸は早雲勢の攻撃に敵わずと観念して自決したと伝えられている。

 堀越公方を滅ぼして伊豆を平定した早雲は御所跡の東1.7kmほどのところに韮山城を築いて居城とした。その後、早雲を初代とする後北条氏は韮山城を伊豆支配の拠点とし、この守山城も韮山城の支城として利用されたものと思われるがその詳細は分らない。

 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は北条攻めに乗り出し、韮山城には四万四千の大軍が押し寄せた。豊臣勢は上山田陣城などの付城群を構築して韮山城を完全に包囲したが、この際に守山城は豊臣勢によって利用されたようだ。

 現在見られる堀切などの遺構はこの際のものと言われている。曲輪の跡は山頂部の主曲輪を中心にした尾根上に構築されているが、何れも小規模なものである。ただ、狩野川に面した西側山麓部にはかなりの広さを持つ曲輪が二段構築されている。おそらく、韮山城を包囲した豊臣勢の兵糧など物資の集積所となっていたのではないだろうか。狩野川の水運も大いに利用されたものと思われる。


守山西側山麓部の広い曲輪跡。奥に見える階段は山頂へと続く遊歩道である

▲主郭に達するまでには小さな曲輪跡が幾つか残る。
 ▲ 守山城の西側は「守山西公園」として整備されている。
▲ 遊歩道入口。この入口の東側(左)の広場は発掘調査の行われた「北条氏邸跡」である。

▲ 山頂や尾根筋に設けられた曲輪は大変狭いのに対して西麓にはこのような広い曲輪がある。

▲ 西側の広い曲輪跡から先の遊歩道は頂上までこのような登り階段が続く。

▲さらに続く階段。

▲ 山頂主郭部と堀切で隔てられていた北側の曲輪。ここに展望台が建てられている。

▲ 山頂展望台から東側韮山城方向を展望。頼朝配流の蛭ヶ小島もここから見える。

▲ 守山城跡西麓の狩野川沿いに設けられた守山西公園の駐車場。

▲ 公園駐車場に掲げられた公園の案内図。
----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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