長浜城
(ながはまじょう)

              静岡県沼津市内浦長浜        


▲ 長浜城は駿河に進出した武田氏の水軍に対抗するため、後北条氏が水軍
の拠点として築いたものである。戦国期における数少ない海戦として知られる
駿河湾海戦で、後北条水軍はこの長浜城から出撃した。(写真・長浜城主曲輪)

後北条水軍の城

 永禄十一年(1568)、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して駿河への進攻に踏み切り、駿府から今川氏真を敗走させた。以後、駿河・遠江・伊豆は武田・徳川・後北条の三氏が入り乱れて抗争を繰り返す乱戦の舞台となってゆく。
 念願の海を手に入れた武田氏は今川水軍を吸収して武田水軍を編成、駿河湾の海上支配の強化を図ろうとする。武田信玄亡き後も子の勝頼が三枚橋城(沼津城)を強化して後北条氏との対決に備えた。
 一方の後北条氏は遠江で武田勢力と交戦中の徳川氏と結び、挟撃の構えで武田氏との戦いに臨もうとする。同時に駿河湾の武田水軍に対抗する必要性から伊豆半島西岸の水軍拠点の強化に取り掛かった。その際に水軍基地建設の白羽の矢が立ったのがここ内浦湾の長浜であった。
 天正七年(1579)十一月、後北条氏は重須(おもす)湊を抱える長浜に船掛場(ふなかけば)の建設に取り掛かった。いわゆる、軍船繋留施設の建設である。長浜城の築城も船掛場建設と同時に進められた。
 翌十二月、北条氏政は北条水軍の大将梶原備前守景宗を長浜城に配した。
 年が変わって天正八年(1580)三月、武田勝頼率いる武田勢が浮島ヶ原(富士市)に布陣、その先鋒は千本松原(沼津市)に布陣した。対する北条氏政も大軍を率いて三島に布陣、対峙状態となった。
 この対陣で動きがあったのが双方の水軍であった。戦いの実態は双方の記録(北条五代記、甲陽軍鑑)により違いがあるが、水軍同士の戦いが起きた。「駿河湾海戦」と呼ばれるものである。
 この戦いは内浦湾から千本松原の沖合にかけての海域が戦場となったものと思われる。後北条水軍は五十丁櫓の大型軍船安宅船を長浜城重須湊から十艘出撃させ、中型・小型の関船しか持たぬ武田水軍を追いかけ回したと伝えられている。結果は日没引き分けであったと言われている。武田方の甲陽軍鑑には武田水軍の将向井兵庫正綱の獅子奮迅の活躍が伝えられており、北条方の船を奪って撃退したとある。

 天正十年(1582)、武田氏が滅び、織田信長が斃れ、時代は豊臣秀吉を軸に回り始める。
 天正十七年(1589)、秀吉との対決が避けられないものとなると、北条氏直は韮山城の大藤与七以下足軽八十人に長浜城の守備を命じた。
 翌天正十八年(1590)、豊臣勢との決戦態勢のためか、後北条水軍は小田原に集結、水軍が撤収した長浜城には土豪大川兵庫が立て籠もったという。豊臣水軍が迫ると、大川兵庫らは抗する術もなく一戦も交えず敗走したと伝えられている。その後、大川氏は網元として内浦の漁業を支配、江戸期には韮山代官の小代官をつとめて幕末に至ったという。


▲ 主曲輪から内浦湾を望む。かつての水軍基地も今ではヨットの繋留地となっている。
 ▲ 登城口前には説明板や城址の模型などが展示されている。
▲ 国指定史跡長浜城の碑。登城口である。

▲ 城址碑のところからこの階段を登ると三の曲輪である。

▲ 三の曲輪。左側に土塁。

▲ 二の曲輪と三の曲輪の間の堀切。

▲ 二の曲輪。工事終了後はどのようになるのだろうか。

▲ 主曲輪の北側には海に向かって四段の曲輪が連なっている。

▲ 主曲輪と二の曲輪の間の堀。コンクリで固められようとしている。

▲ 長浜城跡を内浦湾越しに東側から望む。手前の岬が城址である。
----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 「静岡県の城物語」他

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