長松城
(ながまつじょう)

            岐阜県大垣市長松町    


▲長松城は竹中半兵衛重治の従兄弟源助長利が城主となった城で、
美濃路の要衝にあることから豊臣秀吉も幾度か立ち寄ったという。
(写真・荒崎小学校前に建つ城址碑)

美濃路の要衝

大野郡公郷(現・揖斐郡大野町)の大御堂城主竹中重元は永禄元年(1558)に岩手氏の支配する不破郡を攻め取り、居城を菩提山に移した。この時に長松の地もその領内にあり、ほどなくして城が築かれたとされる。

長松城主となったのは重元の弟重光の子源助重利で三千石を分知された。重元の子重治は軍師として有名な竹中半兵衛であり、重利は従兄弟にあたる(別説あり)。

天正七年(1579)、半兵衛重治が病没すると重利は羽柴秀吉に直接仕えるようになり、小田原攻め(1590)では馬廻として活躍した。また、長松の地が美濃路の要衝であることから秀吉が度々長松城に立ち寄ったという。

文禄三年(1594)、重利は豊後国高田一万三千石を与えられて美濃を去り、関ケ原(1600)後は豊後国府内二万石に加増転封となっている。

竹中重利の去った長松城には秀吉の家臣武光式部少輔忠棟が五千石で入部した。慶長五年(1600)の関ケ原時、忠棟は石田方西軍に属して城を守った。東軍の美濃進攻に際しては揖斐川を渡って福束城の応援に出陣したが敗北して逃げ戻る。八月二十四日、忠棟は東軍勢が大垣城の西北赤坂に大挙終結するのを見ると城を捨てて伊勢桑名城に走り、氏家行広を頼った。戦後は浪人となり、大坂の陣では大阪城に入城、夏の陣にて自害した。

武光忠棟が捨て去った長松城にはすぐさま家康の命を受けた一柳監物直盛が進駐したが、戦後は廃城となった。


▲大垣市立荒崎小学校の校門脇に城址碑が建つ。

▲城址の由緒碑。
----備考----
訪問年月日 2022年5月3日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ