三崎城
(みさきじょう)

        神奈川県三浦市城山町        


▲ 三崎城は三浦氏によって戦国期に築かれたとされるが、城郭
として本格的に改修されたのは後北条氏の手によってであった。
(写真・三崎漁港から見た三崎城址。中央丘の上の白い
建物辺りがU郭、その左の白い建物辺りが主郭となる。)

後北条水軍の城

 三崎城がいつ頃築城されたのかは明確ではないが、関東地方が兵乱の巷と化する15世紀中頃に城郭化されたものと見られている。当時、三浦半島を本拠地としていたのは鎌倉以来の名族三浦氏で、戦国争乱の渦中にあって相模屈指の勢力を誇るに至っていたのである。

 16世紀に入ると伊豆の伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を奪取して相模に進出してきた。三浦氏との対決は必至となり、永正九年(1512)に早雲は三浦氏攻めを開始した。

 三浦氏の当主は三浦道寸義同で、子の義意とともに新井城に籠城して早雲への抵抗を続けた。三年に及ぶ籠城戦の末に兵糧底を尽き、城兵は討って出、道寸父子は自刃して城は落ち、三浦氏は滅んだ。この時三崎城も落城したが、囲みを破った城兵が城ヶ島(三崎港南の島)に逃れて抵抗したことが伝えられている。

 三浦氏を滅ぼした早雲はその三年後の永正十六年(1519)に没して二代氏綱の時代となり、北条(後北条氏)を称するようになる。

 この後北条氏の時代に三崎城は水軍基地として大改修され、江戸湾対岸安房の里見氏との攻防が繰り広げられた。三代氏康の時代、弘治二年(1556)十月の戦いでは里見義弘率いる水軍(兵船80艘)が襲来、三崎城将梶原備前守、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが奮戦したと伝えられている。この戦いでは一時的に三浦四十村が里見軍に占拠されたとも、又は後北条方が奮戦して里見軍を撃退したとも言われている。

 永禄十年(1567)、四代氏政は伊豆韮山城主の弟氏規に三崎城主を兼任させた。伊豆水軍を配置させるためのものであったと思われる。天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐時、氏規は韮山城に籠城、三崎城は家老の山中上野介が守った。小田原落城により三崎城も開城降伏した。

 その後、関東は徳川家康の支配する所となり、三崎城跡には徳川水軍の将向井正綱が屋敷を設けて船奉行の任に就いた。

 現在は市役所や学校など公共施設の用地となってかつての城の全貌を探ることは難しい。しかしながら駐車場や道路沿いなどには土塁の跡が見られ、かつての堅城ぶりを今に伝えている。


▲三浦市役所。主郭北側に位置しており、前の道路はかつての堀跡になる。

▲市立図書館の北側道路沿いに残る土塁。かつてのU郭北側を廻っていたものである。

▲体育館前の道路沿いに建つ城址碑と説明板。

▲「三崎城跡」の碑。

▲城の最東端に位置する出丸跡。慰霊堂が建てられている。

▲ 慰霊堂のある出曲輪と図書館のあるU曲輪の間にある堀切跡。急坂の道になっている。

▲市役所の南200mほどの光念寺駐車場脇に残る土塁跡。

▲同じく土塁跡。
----備考----
訪問年月日 2013年1月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「関東の名城を歩く・南関東編」他

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