忍城
(おしじょう)

県指定旧跡、百名城

           埼玉県行田市本丸         


▲ 忍城は豊臣秀吉の小田原征伐時、関東の諸城が後北条氏の本城
である小田原城落城以前にそのことごとくが落城したなかにあって
唯一、本城に先立つことなく最後まで頑強に抵抗した城として知られる。
(写真・行田市郷土博物館の一部として復興された御三階櫓)

忍城、落城せず

 関東七名城に数えられる忍城は「忍の浮城」とも称されるように利根川と荒川に挟まれた湿地帯に築かれた城である。築城の時期は文明十一年(1479)頃とされ、成田顕泰の築城によるとされている。

 成田氏は鎌倉期以前から武蔵北部に根付いた武士として保元物語にもその名が記されているほどにその歴史は古い。その後の鎌倉時代、南北朝時代も幾度かの盛衰を経ながらも近隣諸氏との婚姻、養子縁組などによってその家系は保たれ、戦国期を迎えるに至ったようだ。

 成田氏の本拠地は現在の熊谷市上之(かみの/忍城の西北約4km)であったと言われ、顕泰・親泰父子の代に児玉氏や忍氏を滅ぼして勢力を拡大、忍城を築いて移ったものと見られている。この頃の成田氏は山内上杉氏に属していたが、永正の乱(鉢形城の戦い/1512)の敗北などによって関東管領山内上杉氏の衰退は著しく、親泰の子長泰の代には後北条氏の進出もあって厳しい状況が続いた。

 天文二十二年(1553)、ついに忍城は北条氏康の大軍に攻められるに至ったが落ちることはなかった。この後、長泰は後北条氏に属し、永禄三年(1560)の上杉謙信(輝虎)による関東進撃の際にはこれに服した。しかし、翌年の鶴岡八幡宮における謙信の関東管領就任の折に辱めを受けたために長泰は謙信と決別して忍城に戻っている。謙信との戦いに備えて忍城の改修が進められたことは言うまでもないだろう。

 永禄九年(1566)、家督を継いだ氏長は後北条氏に属した。北条氏康も成田氏を厚く遇したという。

 天正二年(1574)、とうとう忍城に上杉謙信の軍勢が迫り、攻防戦となったが、ついに落城することなく謙信勢を退けた。

 そして天正十八年(1590)を迎える。豊臣秀吉による天下統一最後の大戦となる小田原攻めとなった年である。城主氏長は後北条氏からの求めに応じ、三百五十騎を率いて小田原城に籠城するために忍城を出陣した。忍城に残ったのは城代成田泰季(氏長の叔父)以下三百騎と城内に籠った領内の老若男女三千人だったという。城代成田泰季は去る謙信勢との戦いの折に勇戦奮闘した猛将として知られ、家臣の信頼を得ていたが開戦を前に病没してしまった。そこで城代を引継いだのは泰季の嫡男長親であった。

 一方の豊臣方の大軍勢は破竹の勢いで小田原城に迫り、武蔵、上野にも上杉、前田、浅野、真田といった諸軍勢が進撃、忍城には館林城を三日で落として意気上がる石田三成を大将とする三万(諸説あり)の軍勢が押し寄せた。六月五日のことである。

 この忍城攻めで石田三成ははじめ力攻めで押しに押したが沼地に囲まれた忍城は意外に攻め難く、水攻めで忍城を孤立させる策を用いたことはよく知られている。三成自身の発案であったのか秀吉による指示であったのかよく分らないようだが、忍城を見下ろす丸墓山に陣取った三成は七里に及ぶ長大な堤をわずか七日で完成させたことで忍城の命運もここに極まったと手を打って喜んだことだろう。直ちに利根川と荒川の水を引き入れて城の周囲を水没させてしまった。

 ところが、忍城内ではこれで敵は攻めて来ないぞとばかり、酒盛りや舟遊びして降伏の兆候など気配もないのである。逆に雨のために増水したために堤が決壊して石田勢の兵が多く犠牲になったと伝えられている。

 六月の末になると浅野長政や真田昌幸の軍勢が加わり、水の引いた忍城攻めが再開された。忍城では城主氏長の娘甲斐姫の勇戦も伝えられ、士気はいや増して盛んな状況にあった。

 七月五日、小田原城の北条氏直が降伏して開城した。しかし、忍城の攻防はなおも続き、小田原にいた城主氏長の命によって十一日に至り、開城となったのであった。開城にあたり、城兵はもとより城に立て籠もった領民たちも一切お咎めなしの処置が取られたという。城代成田長親は小説などでは一騎当千の武将ではなく凡庸で領民思いの武士として登場するが、圧倒的な大軍を前にした城兵らが最後まで一丸となって城を守り続けえたということは長親が城兵、領民たちから信頼され、精神的支柱となりえた武将であったということだろう。いかに名城、堅城といえども所詮は人を得なければ、ただの土くれに過ぎない。まさに「人は石垣、人は城」である。

 開城後、城主氏長、城代長親ら成田一門は秀吉の命に従って蒲生氏郷預かりとなり、多くの家臣、領民と別れて会津へ移った。翌天正十九年(1591)、下野国烏山二万石に封じられた。氏長の後、長忠、氏宗と続いたが、残念なことに、元和八年(1622)に至りお家騒動のために改易となった。

 成田氏の去った忍城は関東入りした徳川家康の支配となり、松平(深溝)家忠が一万石で城主となった。次いで松平(東条)忠吉十万石、松平(大河内)信綱三万石、阿部氏九代十万石、松平(奥平)氏五代十万石を経て明治に至った。この間、忍城は藩庁として整備され、戦う城としてではなく、治世の城として生き続けた。


行田市郷土博物館の南側に残る忍城唯一の遺構、本丸の土塁である

▲鐘楼。本来は二の丸にあって時を告げていた。文政六年(1823)、伊勢桑名から忍に転封となった松平忠堯が桑名から持ってきた鐘である。本物は博物館内に展示されている。

▲博物館駐車場脇に建つ「忍城御本丸跡」の碑。

▲高麗門。忍城の移築門と言われるが、どこの門かは不明。

▲行田市郷土博物館。ここはかつての本丸にあたる。

▲東門前の城址碑。

▲御三階櫓と東門、あずま橋。御三階櫓は元禄十五年(1702)、藩主阿部正武の時に三の丸のさらに外側の郭に建てられ、天守に代わる建造物となった。現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に本丸跡に再建されたものである。

▲本丸跡に復元された鐘楼。

▲博物館から本丸土塁跡へ向かう途中に移築・復元された門がある。藩校「進修館」の表門であったと伝えられて。

▲忍城には元禄十五年(1702)に三階櫓1棟、二階櫓2棟が建てられ、明治六年(1873)に解体された。塀の前に置かれた石はその櫓の石垣に使用されたもの。

▲石田堤史跡公園。忍城水攻めのために石田三成の築いた堤が百数十メートルほど残っている。

▲石田堤。駐車場から上越新幹線高架までの約100mほどの堤が残っている。

▲石田堤史跡公園のシンボルモニュメント。上越新幹線の高架下を利用して説明板や絵図などが展示されている。

▲シンボルモニュメント周辺は公園として整備され、このような堤の断面を見学できるようになっている。

▲高架下に展示されている忍城水攻めの図。

▲同じく堤の上から水攻めを指揮する石田三成の図。

▲同じく堤決壊の図。
----備考----
訪問年月日 2012年5月5日
主要参考資料 「関東の名城を歩く・南関東編」
「水の城 いまだ落城せず」
「のぼうの城」他

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