茨木城
(いばらきじょう)

              大阪府茨木市片桐町      


▲ 現在の茨木小学校の北側が茨木城の本丸であったとされている。
校内には昭和3年に建てられた「片桐氏茨木在城碑」がある。

片桐且元、
     無念の帰城

 茨木城の城主として著名なのは中川清秀と片桐且元であるが、茨木城の歴史は国人茨木氏の居城であったことにはじまる。

 享保二十一年(1736)に記された「茨木町故事雑記」には、建武年中(1334〜1338)に楠正成の領地となって此処に始めて城を築くとある。しかし、正成が築城したという城がこの茨木城であるのかはよく分からない。

 南北朝の争乱が終わり、室町時代となると地侍、土豪といわれる小領主たちが領域支配のための城館を築き、地域の有力者として成長してゆく。国人と呼ばれる武士たちである。十五世紀前半には摂津の国人として茨木氏の名が出てくる。この茨木氏は守護である管領細川氏に仕え、応仁の乱(1467)では細川家の家臣として活躍したようである。

 文明十四年(1482)、摂津で国人一揆が起きている。この一揆は守護細川政元と守護代薬師寺元長によって鎮圧されたが、この戦いで茨木氏も討伐され、兄弟父子ともに自害させられている。

 この後、守護代薬師寺氏は茨木を城館の地としたようである。永正四年(1507)の細川家の内紛では薬師寺家も分裂してあらそっているが、この時に守護代薬師寺長忠が薬師寺万徳丸の攻撃を受けて茨木城で敗死している。ちなみにこれが茨木城の初見であるとされている。

 大永六年(1526)以後、細川晴元の政権時代となるが、この政権の中で茨木伊賀守長隆が活躍している。長隆は京に出て晴元の代官を務めるなどして細川家奉行人と呼ばれる地位を得た。茨木氏の絶頂期であったといえる。

 しかし、変転の激しいこの時代のことである。天文十七年(1548)、三次長慶が晴元打倒の兵を挙げたのである。この挙兵には摂津の国人衆の大半が加わっていた。茨木長隆は晴元を見限ることができず、一夜にして摂津国人衆の敵となってしまった。翌年の江口合戦(大阪市東淀川区)の敗北によって晴元政権は近江に逃亡した。その後は三好政権の時代となる。

 長隆は最後の土壇場で三好方に寝返っていたのである。長慶の傀儡である細川氏綱の奉行人としてその名を残している。武人というより行政官としての能力に優れていたのであろうか。茨木氏は三好政権の中でもしたたかに存続していった。

 時代はさらに変転する。永禄十一年(1571)、織田信長が足利義昭を奉じて武力上洛した。この時の茨木城主は茨木佐渡守重親であった。佐渡守と長隆の関係は分からないが、他の国人とともに信長に降っている。その後は摂津三守護のひとり和田惟政(高槻城)に属して摂津野田、福島攻めなどに加わっている。

 元亀二年(1571)、和田惟政は信長に反した荒木村重と白井河原に戦い、敗死してしまった。この合戦で茨木佐渡守も討死、茨木城も荒木勢によって落とされてしまった。これが茨木城の茨木氏時代の終焉とされている。

 戦後、茨木城には荒木村重の息子村次が入ったが、天正五年(1577)には家臣の中川瀬兵衛清秀が城主となった。清秀は城を整備拡充して、居館城程度であった茨木城を城郭規模に進化させたものと思われる。

 天正六年の荒木村重の謀反に際しては、清秀ははじめ村重方に付いて城の防備を固めたが、織田方の説得によって高槻城の高山右近とともに織田方に降った。

 天正十一年(1583)、賤ヶ岳合戦。茨木城主中川清秀は羽柴秀吉のもとで大岩山砦に陣していたが、柴田方の佐久間盛政隊の猛攻を受けて奮闘の末に自決して果てた。

 清秀の後、茨木城は嫡男秀政(五万石)が継いだ。秀政は小牧長久手合戦や四国平定に活躍して天正十三年に播磨三木六万五千石に栄転した。

 中川氏転出後の茨木城は豊臣秀吉の直轄となり、代官として安威了佐が預かった。文禄二年(1593)からは川尻秀長が代官となっている。

 慶長六年(1601)、関ヶ原合戦の翌年である。茨木城の新城主として片桐且元・貞隆兄弟が入った。且元は豊臣秀頼の傳役であり、大坂城詰めであったため、実質的には貞隆が城主を務めたものとみられる。

 且元は周知の通り、賤ヶ岳七本槍のひとりである。関ヶ原以後は豊臣家と徳川家の間に立って争いを避けるように心労を尽くした。慶長十九年(1614)七月の鐘銘事件以後の且元の避戦行動は豊臣家存続の一点にあったことは確かであろう。しかし且元の示した妥協案は大坂城内で淀殿以下の総反発を引き起こし、合戦へと突き進む結果となってしまった。

 且元は孤立し、大坂城内の片桐邸は大野治長の手勢に囲まれるなどして差し迫った状況が続いた。そしてついに大坂城追放の命が下されたのである。これは関東(徳川家)との手切れを意味した。

 十月一日、退城の日、且元は白の小袖姿で輿に乗り、両側の戸は開け放たれ、一族家臣皆武装して整然と大坂城を出たという。
「すべて家康の思惑通りになってしまったわい」
 輿の中で且元は孤独と苦渋の日々を振り返った。茨木城の城門をくぐる頃には心の整理がついていたかもしれない。
「太閤様に命じられた傳役の任は秀頼様によって解かれたということじゃ」
 豊臣家における自分の仕事は終わったと。それにしても無念であったに違いない。

 且元と貞隆は直ちに城の防備を固めた。いつ大坂勢が攻め寄せて来てもおかしくないのである。

 十月十三日、大坂勢による堺討伐があった。堺奉行の芝山正親は茨木城の且元に援兵を要請して自らは岸和田城へ逃走してしまった。柴山がなぜ且元に使者を走らせたのか分からないが、要請を受けた且元は直ちに援軍を出撃させた。堺には貞隆の妻(今井宗薫の娘)が難を避けて里帰りしており、この騒動で自刃したという。

 茨木城をいち早く出撃したのは先遣隊の多羅尾判左衛門ら数十人の部隊で、陸路大坂城を迂回して堺に突入した。貞隆の妻の救出に向かったと思われるが、無残にも全滅してしまった。

  先遣隊に続いて家老牧野次郎右衛門と今村三右衛門の率いる三百人ほどの片桐勢が出撃した。この片桐勢は海路、堺に向かうために尼崎城で舟を調達しようと西へ向かった。

 ところが尼崎城からは舟の供出を拒否してきたのである。尼崎城主は建部政長、若干十二歳であったが姫路三十二万石の池田氏の保護下にあった。云うまでも無く関東方である。且元は大坂城を追放されたとはいえ豊臣家の重臣であったのだ。尼崎城内では関東の目を恐れて片桐家との関わりを避けたものと思われる。

 この片桐勢と尼崎城側との交渉の様子は大坂方の物見によって大坂城へ通報されていた。

 日暮れ時、足止めされた片桐勢は突然大坂勢に襲われた。この大坂勢は大野治長の家臣米村六兵衛の率いる三百ほどの一隊であった。完全な不意討ちで、片桐勢の多くが討取られ、茨木城まで逃げ果せた兵は僅かなものであった。この戦闘で討取られた首は二百以上と云われ、大坂方によって大坂城外の大和河原に晒された。

 家臣の多くを失ったことで且元の腹は決した。大坂を見限るほかなしと。且元は直ちに京都所司代板倉勝重のもとに援軍を要請した。勝重の命を受けて真っ先に茨木城に駆け付けて来たのは伏見城代松平定勝の一隊で村上吉正が率いていた。この翌日には丹波方面から川勝広綱、藤掛永勝の隊が到着、さらに備中庭瀬三万九千石戸川達安、越前内一万石長谷川守知の軍勢が茨木城近くに布陣した。まさに茨木城は関東方の最前線となったのである。

 その後、家康は二十万余という未曽有の大軍を大坂城の周りに布陣させた。大坂冬の陣である。且元は大坂城の堀の深さや建物の配置を教えるなどして積極的に家康に協力した。そして夏の陣では秀頼と淀殿らの隠れる蔵の場所を報じ、豊臣家に引導を渡した。

 戦後二十日目の元和元年(1615)五月二十八日、且元は急死した。病死であったとも、自責の念に駆られて自刃したとも云われている。

 大坂の陣の戦功で且元は大和龍田四万石を与えられ、子の高俊がそこへ移った。且元の弟貞隆は大和小泉一万六千石を拝領して茨木城を出た。

 翌元和二年、茨木城は代官間宮三郎右衛門光信の預かりとなった。そして一国一城令によって翌三年に城は取り壊された。取り壊しに際しては片桐家の重臣城忠兵衛が立ち会った。
「……」
 廃墟となった城跡で、忠兵衛の胸に去来したものは何であったろうか。

▲ 茨木小学校に復元された茨木城の櫓門。これは大和小泉の
慈光院に移築された茨木城の櫓門を瓦葺きで復元したものである。


▲ 茨木小学校の校庭。茨木城跡は宅地化してその遺構を見ることはできないが、この小学校の校域の大部分が本丸に続く二の丸であったという。

▲ 茨木小学校に復元された櫓門の脇に建つ城址碑。

▲ 茨木小学校の体育館横に設けられた「城跡の道」。ここに「片桐氏茨木在城碑」が建っている。

▲ 茨木城の搦手門を移築したものと伝わる茨木神社東門。

▲ 慈光院山門。片桐貞隆は廃城を前に城門のひとつを自らが建立した慈光院(大和郡山市)の山門として移築した。

▲ 慈光院山門。左の写真とこの写真は「城郭探訪」五郎様より提供されたものです。
----備考----
訪問年月日 2008年6月
主要参考資料 「よみがえる茨木城」他

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