鹿島城
(かしまじょう)

              佐賀県鹿島市高津原        


▲ 鹿島城は鹿島藩の新たな府城として文化四年(1807)に築かれたものである。現在は
歴史公園「旭ヶ岡公園」となって石垣、堀、門などが歴史文化遺産として保護されている。

炎上自落の鹿島城

 鹿島城の歴史はそれほど長くはない。文化四年(1807)に築城されて明治七年(1874)に炎上自落してしまったからである。築後わずか七十年足らずで灰となってしまったことになる。
 鹿島城は佐賀鍋島藩の支藩である鹿島藩の府城である。それまでは常広城(鹿島市常広)が府城であったのであるが、地形的に鹿島川と塩田川の間にあったことから水害に見舞われることが多かった。そこで九代藩主鍋島直彝(なおつぐ)が幕府と本藩に願い出て新たにこの城を築いて藩府としたのである。
 戦国期のはじめまでこの辺り(鹿島・藤津)を支配していたのは大村氏であったといわれている。大村氏は後にこの地を去って現在の大村市を本拠にし、戦国の世を生き抜いて明治に至っている。この大村氏を鹿島から退去せしめたのは小城の千葉氏であり高来の有馬氏であった。時期は永正の頃(1504-21)とされる。その後、しばらくは有馬氏の(日野江城)支配下にあったが、天正四年(1576)に龍造寺隆信の進攻があり、その支配となった。
 この時に隆信は家臣の鍋島信房に常広城を築かせて鹿島の統治にあたらせたのである。
 幕藩時代となった慶長十六年(1611)、佐賀藩主鍋島勝茂は弟忠茂に二万石を分知して常広城主とし、鹿島藩を支藩として立藩させた。これまでの城主であった信房は神代領を与えられて移り、神代鍋島家(鍋島陣屋/鶴亀城)として代を重ねることとなる。
 常広城を藩府としてはじまった鹿島藩であったが、先の事情で九代藩主直彝によりこの鹿島城が築かれ、藩府が移ったしだいである。
 ただ、鹿島藩とはいえ、佐賀本藩の支配下にあったわけであるから、あくまで本藩主の家臣としての位置付けであった。したがって一国一城制下における鹿島城は鹿島館あるいは高津原屋敷と呼ばれていたのである。当然ながら本丸には天守は建てられることはなく、館造りの城であった。
 その後、鹿島藩鍋島家は代を重ねて明治に至る。最後の藩主は十三代直彬(なおよし)である。明治四年(1871)、廃藩置県により東京に移った。
 明治七年(1874)、江藤新平らによる佐賀戦争が勃発した。不平士族による反乱の先駆けとして知られる戦争でもある。この時、旧鹿島藩士らも江藤らに組するために佐賀に向かったという。そして留守の士が官軍の足掛かりとなることを恐れて鹿島城を焼き払ってしまったのである。からくも類焼を免れて残ったのが赤門と大手門と倉庫一棟だけであったと言われている。

▲ 明治七年(1874)の佐賀の乱の混乱のなかで焼失を免れた本丸正門である「赤門」。現在は県立鹿島高校の校門となっている。
 ▲ 旭ヶ岡公園。春には桜が見事だといわれている。
▲ 本丸東側の石垣と堀。

▲ 最後の藩主となった十三代鍋島直彬公の像。

▲ 三代藩主鍋島直朝公追徳碑。

▲ 城内に建てられた松蔭(まつかげ)神社。

▲ 公園東側入口に残る石垣。
----備考----
訪問年月日 2011年5月3日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ