「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


一章、 佐和山 

 慶長五年、夏。
 北国街道を関ヶ原へ抜けつつある千ほどの軍勢があった。
 紺地に白く違い鷹羽の紋を染め抜いた旗は、その軍勢が越前敦賀五万石の領主、大谷刑部少輔吉継のものであることを示している。
 大谷吉継は六月晦日、徳川家康の会津征伐に参陣するために敦賀の居城を出発して、この日七月二日は琵琶湖畔の木之本から関ケ原を経て美濃国垂井まで軍を進めることになっていた。
 徳川家康による会津征伐は会津百二十万石(若松城)の領主上杉景勝が豊臣秀吉、前田利家の死後、大坂から国元に戻ったまま上洛の催促にも応じず、ひたすら築城、武備の増強を図っていることから謀反の疑いありとしてこの年の六月初旬に上杉を討伐することが決定されたことによる。
 上杉景勝が越後から会津へ国替えとなったのは関東の家康を暗に牽制する目的が秀吉にあったからで、秀吉の死後も重臣の直江兼続は五奉行筆頭で反家康の急先鋒である石田治部少輔三成と協力して家康打倒の策を謀っていたのである。家康が会津征伐に腰を上げて上方を離れた隙に三成が豊臣恩顧の諸将に檄を飛ばして挙兵し、東西から家康を挟撃するというものである。
 しかし、家康もだてに戦国の世を今日まで生き抜いてきたのではない。そのへんのところはすでに承知している。逆に三成に挙兵させることによって豊臣の天下を乱す謀反人として公に討ち滅ぼしてしまおうと考えている。いわば会津征伐は三成に挙兵させるための誘い水ともいえた。
 とはいえ、こうした家康、兼続、三成の思惑は他の大小名達はもちろん知る由もない。秀吉、前田利家亡き後の幼少の秀頼に代わって天下の仕置きを実行できうる実力者は内大臣徳川家康をおいて他になく、誰しも家康こそが豊臣を代表する実力者であると認めていた。だからこの会津征伐に家康が動き出したときもその催促に応じるまでもなく各地の大小名達は従軍を競うかのように家康の後に続いていた。大谷吉継も素直に家康の会津征伐に従軍するつもりで敦賀を後にしてきていたのである。
 北国街道は関ヶ原に出ると中山道に合流している。
 癩に病める吉継は視力の衰えた目を凝らして、あたりの風景を確かめるように眺めていたが、真夏の日差しがやたらと白く眩しいだけで、わずかに軍兵の動きがぼんやりと判るだけであった。十年ほど前から癩病の兆候があらわれて今では身体中の関節部が思うようにならず、さらに鼻梁がくずれて顔容もおおきく変わり、その醜さを現わさぬように目の部分だけを開けて頭部全体を白布で覆っていた。しかも武将でありながらその身体は騎乗に耐えうるものではなく、今度の出陣では駕籠に乗っての行軍であった。
 夕刻、大谷勢は垂井に着いた。
 垂井(垂井城)には平塚為広が一万二千石で封ぜられている。ひとの倍ちかくある太身の太刀を振るといわれた豪勇の武将で吉継とは親交が深い。

 その夜、吉継は為広の館で佐和山から戻った使者の報告を受けた。
 「しばし、垂井にて待たれたし、との治部少輔さまの御諚にござりました」
 木之本を出発する際に石田三成の居城である佐和山城へ出した使者である。
 三成はこの年の閏三月三日、前田利家死去の夜に、かねてより三成を憎んでいた七将の加藤清正、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明らによる襲撃を交わして家康のもとへ逃げ込み、奉行職を辞して引退するということで家康に七将との間を仲裁してもらったという経緯がある。それでこの時期は大坂から佐和山城に戻っていたのである。したがって、今度の家康による会津征伐の発動に対しても、
 「自分は蟄居の身であるので子息の隼人正重家を代理として下向させたい。ついては重家は年少であるため大谷刑部少輔殿に預けて同道させるのでよしなに」
 と家康に伝え、表向きは従順さを装っていたのである。
 吉継は三成の意向に従って隼人正を垂井で待つつもりであったのだ。
 「治部殿は他に何か申さなんだか」
 吉継は使者に持たせた書状に、
 「親子うち揃って家康殿の会津征伐に参陣するように」
 と書き送っていた。三成が家康と陣を同じくすることで家康との仲を良い方向に持っていこうと、その間を取り持つつもりであったのだ。
 「そういえば、佐和山の城内の様子がちと気にかかりましてござりまする」
 と使者は灯明を背に座している吉継を見上げた。白布で覆われた顔面は影となってその表情はわからない。
 「なんなりと申せ」
 「はっ、行き交う者、皆平装のままにていくさ支度したる者を一人も見かけなかったことが気にかかりましてござりまする」
 軍兵が招集されていないということは、もともと三成に東下の意志がないということなのか。吉継はいやな予感がした。三成はあくまで家康との対決の意志を捨てていないのではないのか。
 「佐吉よ、正気か」
 とひとりつぶやいた。佐吉とは三成のことである。
 この夜、吉継は鬱々として朝まで寝付けなかった。
 吉継と三成との出会いは天正五年の頃にさかのぼる。秀吉が織田信長の命により中国攻略に取り組み、播磨の姫路(姫路城)を拠点に毛利方の諸城砦を次々と攻め立てていた頃である。
 吉継の大谷家は九州大友氏の家臣であったが、大友宗麟の代に至って島津氏との抗争が激しくなり、大友氏の勢力は斜陽の度を深めていった。吉継、こと紀之介は衰運の大友家に見切りをつけて志し新たに上方へ旅立ったのである。
 三成はこれ以前の、秀吉が長浜城主時代(長浜城)に召し抱えられていたが、この時はまだ幼く、初陣はこの中国攻略の時で、秀吉の側にあって伝令の務めを果たしていた。
 吉継が現れたのはこの播磨の陣で、三成、吉継ともに十代の若さであった。同年配の二人は意気投合して、さっそく三成は吉継を秀吉に推薦した。吉継は百五十石で召し出されることになり、九州征伐、朝鮮出兵時には互いに奉行職をつとめるほどにまで立身した。
 その佐吉が、いま途方もない、おそらく本朝始まって以来の大合戦をやらかそうとしているのか。三成が秀吉の一子秀頼を担いで打倒家康の旗を揚げるならば間違いなく天下を二分する大乱になる。

 翌朝、佐和山から三成の家臣、樫原彦右衛門が馬を飛ばして垂井にやってきた。
 「おゝ、彦右衛門か、久方ぶりじゃの。治部殿は如何にしておる」
 吉継は彦右衛門を人気のない書院に通した。
 「はっ、刑部少輔様に是非ともお会いして話したき儀ありとて、佐和山までお越し願いたしとのことでござりまする」
 吉継は大きく溜め息した。
 「彦右衛門、治部殿が何をしようとしておるか判っておるのか」
 彦右衛門をはじめ腹心の島左近など石田家の主だった家臣にはすでに三成の意志が内々に伝えられているとみえて、彦右衛門は吉継の問いにただ平伏しただけであった。
 「治部殿が内府(家康)殿のことを快く思ってはおらぬこと、重々承知致しておる。されどいま内府と事を構えることは故太閤様の世を大きく乱し、ひいては豊家の前途にもかかわる一大事であるぞ。その方ら、何故諌言致さぬ。主人の誤りを正すは家臣の務めではないか」
 彦右衛門は平伏したまま、
 「おそれながら、わが殿の志とわれら家来の思いとは同じものにござります。わが殿がひとたび戦陣に立たれれば、われらはその馬前に馳せ参ずるのみにござりまする」
 すでに迷いを断ち、家臣一同意を決して主君とともに邁進するのみである旨を述べた。
 「事はそこまで進んでおるのか」
 吉継は、三成の家臣達の腹がすでにひとつになり、三成の号令を待つばかりと知って大きく吐息した。
 「戻って伝えよ。佐和山へ参るとな」
 平塚館の南側には南宮山の森が盛り上がっている。朝陽が高くなるにつれて森の蝉しぐれが一段と騒がしくなった。

 しかし、吉継はすぐには佐和山城へ行かなかった。三日ほど思案に耽って、やはり三成には思いとどまってもらおうと七日の朝、駕籠の支度をさせ、五十騎ほどの手勢を率いて佐和山へ向かった。
 佐和山は琵琶湖畔にあって中山道と北国道との分岐点を抑える要衝の地であるため、古くより城砦が築かれていた。佐々木、六角、浅井と時代とともに争奪の洗礼を幾度も受けて、今では石田三成十九万四千石の居城となっている。豊臣家の代官地と一族の領地を合わせると三十万石ちかくになる。三成がこの城を与えられたのは天正十八年七月のことで、それまでの佐和山城は天守のそびえる城ではなく、いわゆる戦術拠点としてのもので非常時にはいろいろと手が加えられていたものの浅井氏が滅んだ後は城番が置かれる程度で荒れるにまかされていた。
 三成は戦術拠点としての佐和山城ではなく伊香、浅井、坂田、犬上の四郡を治める行政府としての城造りを行った。本丸の五層の天守を中心に二之丸、三之丸にも楼閣を配して白亜を基調としたその雄姿は三成の仁政とあいまって領民の象徴として崇敬に値するものであった。
 その日、吉継一行は夕暮れに染まる佐和山城に入った。三成は自ら大手まで出て吉継を迎え、人払いした天守の一室に案内した。
 「紀之介、身体の具合はどうだ」
 三成は眼の部分だけをあけ、白布で覆われた吉継の顔を見入った。皮膚はおろか骨相そのものが崩れて昔日の面影はすでにない。
 「その病、何か手立てはないものか」
 「この病はわしの過去世からの因縁による業病だ。何の手立てがあろうものか、あるとすれば御仏にすがって念仏三昧に耽るより他にあるまいが。だがな、わしは死ぬまで武将としての道を歩き続ける覚悟じゃ。身は腐り果てようともそれが太閤様の御恩に報いることになる。それに若き日に故郷を捨てた意地が立たぬではないか」
 吉継は一度、病を理由に官職を辞することを秀吉に願い出たことがある。この時、吉継は秀吉にひどく叱られた。たとえ五体を切り刻まれようとも生命のあるかぎり、わしのそばを離れるでない、と。秀吉の慈愛のこもった叱責であった。それほど秀吉は吉継の器量をたかく買っていたのである。
 しばらくして三成が、
 「紀之介、おぬしのことだ、察しはついておろう。わしは内府を討つことに決めた」
 と静かに言った。
 吉継は即座に反対した。
 「やめておけ、まともに戦って勝てる相手ではない」
 「なぜだ」
 吉継の反対が三成には意外だった。若き日より秀吉の薫陶を受けて、ともに子飼いの直臣として苦楽を共にしてきた仲であるから当然同意を得られるものと思っていた。
 三成は膝を乗り出した。
 「紀之介、おぬしはこのまま天下が内府のものとなるのを黙って見ておれというのか」
 吉継も声を励まして言った。
 「佐吉、天下はすでに内府を軸に動いているということがわからぬか。今度の会津征伐を見てみよ。大方の諸侯は皆我先にと内府の後を追いかけて東下しているのが現実ではないか」
 「おぬしが反対するとは思わなんだ。内府の世となるもよしとするのか」
 三成はさらに続けた。
 「数百年続いた戦乱の世を平定し、太平の世を築き上げた太閤様の偉業がこのまま内府ごときに踏みにじられてよいものか」
 「佐吉、おぬしの気持ちはわかる。太閤様の世を秀頼様に引き継がせることが亡き太閤様に対する最大の報恩であることもよくわかる。だがな、天下はおぬしの理屈通りには動かぬものだ」
 「だからといって、わしには内府に尾を振るまねはできぬ。福島や加藤のように目先の欲にくらみ、太閤様の大恩を忘れて私利私欲に走ることなど考えもおよばぬ」
 同じ秀吉子飼いの直臣である福島正則や加藤清正らが自分と肌が合わず家康とのつながりを深めていることをなじった。
 吉継は感情的になることを抑えるかのように大きく呼吸した。
 「たしかに、内府の羽振りがよいとはいえ、いま豊家のためにと大儀を掲げれば十万、いや二十万におよぶ大軍がこれに応じるかもしれぬ。だが、これらの諸侯がたかだか十九万石のおぬしの下知に黙って従うか」
 吉継は三成の性格を知り尽くしている。小身ながら秀吉の側近としての権威をもって大身の諸侯を奉行として取り仕切ってきた。このことが、高慢、高圧的な態度として諸侯には好意的にとられてはいない。
 三成もそこのところは考えている。
 「わしは、帷幕にあって段取りを進める方が性に合っている。おもてには毛利に立ってもらうつもりだ」
 とはいえ、実質的な命令者は三成であることに変わりはない。
 「毛利を立てようと誰を立てようと、戦はいくら大軍を擁しても烏合の衆であっては負けだ。おぬしのために進んで死地に赴く軍勢が如何ほどあるのだ」
 と吉継は詰め寄った。
 「なればこそ紀之介、こうしておぬしに秘事を打ち明けておるのではないか」
 「佐吉よ、よく聞け。おぬしの豊家にたいする忠義心は痛いほどよくわかる。だがな、勝てなんだら何とする。豊家は滅ぶぞ」
 三成の表情が暗くなった。
 「この一挙におぬしが加わってくれぬとあらば致し方ない。わし一人でも事を進めるしかあるまい」
 三成は思いつめたように肩をおとした。
 「佐吉、おぬしまさか後にひけぬところまできているのではあるまいな」
 吉継は三成の雰囲気を察して愕然とした。
 三成は黙っている。
 「上杉の一件、おぬしの策謀か」
 三成は小さくうなずいた。
 あたりは日が暮れて闇となり、灯明が運ばれてきた。
 「佐吉、なぜもっと早く相談してくれなんだのだ。内府が上方にいる間ならば討ち取る隙もあったであろうに」
 家康を関東に戻したということは虎を野に放ったと同じ事になる。
 「すまぬ。だが、わしは正々堂々の陣を張って内府の非を鳴らし天下白日のもとに討ち果たしたいのだ。紀之介、力を貸してくれ。たのむ」
 と三成は頭を下げて懇願した。
 長い沈黙のあと、
 「わかった。おぬしの思うように存分にやるがよい。わしも微力ながら力になろうよ」
 吉継はついに三成の懇請に折れ、三成は吉継の手を取って涙して喜んだ。
 「ありがたい。おぬしが味方してくれるとなれば百万の軍勢を得たに等しいことだ」
 「わしも見ての通りの身体だ。余命いくばくもあるまい。このまま老い腐って死に果てるかと思うておったが、よい死に場所が得られたというものよ」
 「ばかを申せ、大事な友をむざと死にさせはせぬ。この合戦、義はわれにあり、必勝は疑いなしだ。案ずるな」
 もはや吉継は抗弁しなかった。ただ微笑むだけであった。その微笑みが白布を通して三成に伝わった。
 「ところで佐吉、表には毛利に立ってもらうと申したが、その毛利が味方になるかならぬかでこの戦、勝敗が大きく左右されることになるぞ。毛利への手は打ってあるのか」
 「うむ、恵瓊に動いてもらう」
 「安国寺恵瓊か」
 安国寺恵瓊は元亀天正の頃から毛利の使僧として活躍してきた者で、僧侶というよりは多分に政治的な野心をもって、巧みな弁舌と人並外れた度胸で戦国の世を泳いできた男である。天正十年の秀吉による備中高松城攻めで、城主清水宗治を自決に追い込んだのは恵瓊の功績であった。秀吉はこの功に報いるために後日、伊予国内に二万三千石を恵瓊に与えた。その後、加増されて今日では六万石の大名になっていた。
 「そうだ。今頃はわしからの使いを首を長うして待っているであろう。それもこれもまずはおぬしに打ち明けてからのことと思うておったのだ」
 「佐吉、おぬしのことだ策にぬかりはあるまいが、ただひとつ心してくれ。すべてを無にしてあたらねば内府を討ち果たすことはかなわぬということを。この城も妻も子もこの日を境にすべてを捨て去ることだ」
 やがて吉継は腰を上げた。
 「ひとまず、わしは垂井に戻る」
 「垂井の平塚殿にもおぬしから我らに同心するよう、よしなに頼む」
 「心得た」
 この夜、吉継は佐和山城に留まることなく、夜を徹して垂井に引き返した。
 この頃、江戸(江戸城)に到着していた家康は関東に集結した各大名に会津攻めの部署を指示すると同時に、全国の諸大名に書簡を送り、その抱き込み工作に余念がなかった。ちなみに家康の江戸到着は七月二日、会津へ向けての江戸出発が同月二十一日である。

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