赤岩城
(あかいわじょう)

                   豊橋市多米町            


▲ 赤岩城は三河・遠江の境である湖西連峰から西に張り出した尾根上にある。
これはその尾根筋を分断する堀切の遺構で、城址の圧巻部分でもある。

街道を見守る古砦

 赤岩城は三河から遠江へ抜ける鎌倉街道を扼する位置に築かれている。この街道を押さえるためのものであったことは容易に推察できるが、築城の時期や城主については不明なのである。
 享禄二年(1529)、松平清康(徳川家康の祖父)が牧野氏の吉田城を攻め落とした。この戦いで牧野勢は城を打って出て戦ったが、一族家臣七十余人が壮絶な討死を遂げて壊滅した。
 ところが、城主牧野信成と弟成高、成国は多くの兵とともに戦場に斃れたが、残る二人の弟が戦場を落ち延びているのである。新次郎成勝と新三郎成村である。この二人の内一人は牧野氏の本拠地牛久保城に退き、もう一人がここ赤岩城に逃れたというのである。
 このことから赤岩城は牧野氏の持城であったとの見方もあるが、同時期にこの近くには戸田氏の二連木城もあり、一概には断定できないと思われる。
 山麓の赤岩寺に祀られている弁才天は「今橋弁天」と呼ばれ、牧野新三郎が戦場を離脱する際に氏神として城中(吉田城/築城当初は今橋城)にあったものを携えて来たものと伝えられている。
 その後、この城をめぐる戦いもなく、放置されたままであったと思われる。ここに逃れた牧野新三郎(又は新次郎)のその後のことも不明である。
 天文(1532-53)から永禄(1558-69)にかけて、東三河は今川氏の支配下にあり、二連木城の戸田氏は今川氏に属していた。そしてここ多米周辺を領していたのが戸田左門一西(かずあき)であった。一西は後に徳川家に仕えて功績があり、関ヶ原合戦(1600)後は近江膳所藩三万石を拝領して譜代大名となった。一西の子氏鉄は大垣藩十万石の藩主となり、十一代続いて明治に至っている。
 伝承では牧野新三郎が改名して戸田左門となったと言われているが、そうであるとすれば百歳近くまで生きていたことになる。もちろん、これは伝承に過ぎず、史実としては否定されている。

▲ 赤岩城の曲輪部分であるが、林間広場として整備する際に多少手が加えられたのではないかと思われる。
 ▲ 山麓の赤岩寺山門。周辺の山は赤岩山緑地として遊歩道が整備されている。
▲ 赤岩寺の裏山中腹に建つ愛宕社の御堂。城址はここから少し登った所である。

▲ これは御堂から砂防ダムの間に見られる岩場で「大岩」と呼ばれる。よく見ると「役の行者」が彫られている。
----備考----
画像の撮影時期*2010/03

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