(にれんぎじょう)
豊橋市仁連木町
▲ 二連木城本丸跡の北側土塁上に建てられた城址碑。
現在は大口公園として市民散策の場となっている。
葵紋になった戸田氏
二連木城は明応二年(1493)に田原城主戸田宗光(田原初代)によって築かれた城である。 宗光は野心旺盛な武将で、渥美半島を手中にするや北の牧野氏、東の今川氏に対抗するために二連木城を築いたものと思われる。立地的には遠江と三河を結ぶ複数の街道を監視できる東西交通の要衝地であり、明らかに今川氏の西進を警戒しての選地であったと思うが、どうであろう。 本拠地田原城を嫡男憲光に譲り、二連木城に移った宗光は明応六年(1497)、相続問題で停滞期にあった今川氏の隙を衝いて三遠国境に近い船形山城を攻め落とし、さらに遠江西部にその支配地を拡大した。 ところが今川氏は氏親が七代目としての地位を確立して遠江への覇権回復に乗り出していたのである。 明応八年(1499)、宗光は今川勢の逆襲を受けて船形山城で討死、その野心に満ちた生涯を閉じた。 田原城の憲光は今川氏に恭順して旧領の維持を図った。そして嫡男政光が二連木城主となった。戸田氏の渥美郡支配にとって二連木城の維持は不可欠だったのである。 永正三年(1506)、戸田氏は今川氏とともに牧野氏の築いた今橋城(吉田城)を落とし、戸田宣成が今橋城主となった。その後、牧野氏の画策と今川氏の思惑によって戸田氏は今橋城とともに二連木城からも退去を余儀なくされてしまった。 二連木城を退去して田原城を継いだ政光は天文六年(1537)に今橋城を牧野氏の手から奪回、二連木城も回復した。 天文十年(1541)、政光の後を継いだ康光の次男宣光が二連木城主となり、城が改築されたと云われている。 天文十五年(1546)、今川義元の大軍によって吉田城が落城、城主戸田宣成は討死した。宗家田原城の戸田氏もこの翌年、竹千代(徳川家康)を駿府へ送らず織田氏の手に渡してしまったことで義元の怒りを買い、大軍に攻められて滅びてしまった。 この今川勢の三河進攻時に二連木城の宣光は今川方に従っていた。一族の存亡に際して敵味方に分れることは戦国期にはよくみられることであるが、これが宣光の独断であったのか、宗家康光の指図であったのかは伝えられていない。その後は吉田城の今川武将小原鎮実(大原資良)に属して各地を転戦したという。 永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間に討たれると三河の様相は一変する。岡崎城に松平元康(徳川家康)が独立、三河平定に乗り出した。 この頃、二連木の戸田氏は宣光の後、重貞が継いで吉田城の今川方に属していた。永禄五年(1562)には赤坂で家康と戦って敗れている。重貞が今川方に属し続けたのは吉田城内に人質を取られていたからでもあった。 永禄七年(1564)、徳川家康による吉田城攻めが始まった。 この時、城内に居た重貞は小原鎮実と物語して油断させた隙に人質の母を長持に入れ、家臣に城外へ運び出させて二連木城に向かわせた。それを見届けた重貞は吉田城内に火を放って脱出、家康の陣に加わった。家康は旧領八百貫に二千貫を加えて重貞を迎えたのであった。 重貞は吉田城攻囲中の十一月、又は永禄十年に没したとも云われている。重貞には嗣子がなく、家康はそれを惜しみ、重貞の弟忠重の子虎千代を跡目とした。虎千代は家康の前で元服して康長と名乗った。家康は松平姓と葵紋を許して戸田氏の功績に報いた。 康長は元亀・天正の武田氏との抗争期に二連木城を守り通し、天正九年(1581)には高天神城攻めに加わった。天正十八年(1590)、家康の関東移封により康長もこれに従い、二連木城を後にした。 二連木城はその後利用されることもなく、廃城となった。 元和三年(1617)、康長は信州松本城七万石の藩主となった。 |
▲ 本丸と二の丸(老人福祉センター)の間の小路。 かつての堀の跡で、左側は本丸の土塁跡となる。 |
▲ 本丸南側に残る土塁跡。 | ▲ 本丸(公園)南側の入り口。市の城址標柱が建っている。 |
▲ 本丸は公園となっており、城の遺構はその外周に見られる土塁や堀跡などである。 |
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画像の撮影時期*2009/03 |