永享年間(1429-41)に明大寺城(岡崎城の前身)を築いた西郷稠頼は大草から移ったとされてきた。このことから大草城は西郷氏の居城であったのだと一般的には言われてきている。しかし、この西郷氏が守護代として三河に入部する以前からここ大草郷は大草氏の所領地であったのである。
南北朝争乱期の貞和四年(1348)正月、南朝楠木正行の軍勢を足利方高師直の大軍が四条畷に壊滅させた戦いがあったが、この戦いで師直の陣に参じていた大草三郎左衛門公経が戦死していることが伝えられている。公経は足利尊氏から大草郷を還補(再任)されていたと言うから、それ以前の鎌倉期から大草郷の地頭であった可能性もある。討死した公経の子孫公重は将軍義輝に仕えたという。
康暦三年(1381)には足利義満が大草三郎左衛門尉に大草郷西方地頭職を安堵する御教書を発している。西郷氏が守護代として三河入りしたのは観応二年(1351)頃とされているが、その西郷氏は何処に本拠を構えたのであろうか。すくなくとも大草郷は大草氏の所領であり、西郷氏が大草氏に取って代わったという記録はなさそうである。
西郷氏が明大寺城を築いて居城とした後の康正二年(1456)に大草次郎左衛門が内裏造営の段銭を納入したという記録がある。少なくとも公経の代から百年以上にわたって大草郷は大草氏の所領であったことは確かなことであると言える。
では西郷氏が大草郷と関わりを持つようになるのは何時のことなのだろうか。寛正六年(1465)に額田郡一揆と呼ばれる土豪層の反乱事件が起きている。この鎮圧のために明大寺城の西郷氏が出動しており、この鎮圧の戦功で大草郷を得たのではないだろうか。一揆後、大草氏は歴史に登場してこないことからもその可能性が高そうである。
文明六年(1474)、明大寺城を松平氏に譲って隠退した西郷稠頼が大草城で没した。大永五年(1525)には松平清康に明大寺城を追われた松平(西郷)信貞が大草城に隠退して没している。この信貞の系譜を大草松平氏と呼ぶことになる。
信貞の後を継いだ七郎昌久は永禄六年(1563)の三河一向一揆で一揆方に付いて家康に反抗した。一揆方敗北後、昌久は大草を追われたとも、討死したとも伝えられている。
永禄三年(1560)の桶狭間合戦で討死した正親の子康安が家康の嫡男信康に仕えたことで大草松平氏は再び一門として復帰したが、正朝、正永と続いて無嗣断絶となった。
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