戸ケ崎城
(とがさきじょう)

西尾市戸ケ崎町城山


▲戸ケ崎城は南北朝期に戸ケ崎義宗によって築かれた
城であるが、その歴史には分からないことが多い。
(写真・字城山の台地状の部分)

戸ケ崎次郎義宗の城

西尾市戸ケ崎町の字城山はかつて戸ケ崎氏の築いた城があった所とされている。半島状の台地端と言われるが、見た目では平坦な宅地と耕作地帯となっており、地形の違いはよく分からない。わずかに字城山の南端部に台状の地形が残されている程度であり、そこが城跡の名残りなのであろうか。

戸ケ崎城主であった戸ケ崎氏については多くの書誌が「桂岩寺縁起」の記述を引用して紹介している。それによると、戸ケ崎次郎義宗が観応元年(1350)に四十四石を寄進して佳岩寺(西尾市上矢田町)を創建したとされる。

戸ケ崎義宗は足利氏初代義康の子矢田判官義清の孫であり、広沢判官義実の子である。戸ケ崎義宗の兄弟は二木氏、細川氏を名乗り、義実の従兄弟足利義氏からは吉良氏や斯波氏、今川氏が出ている。このように足利一門に連なる戸ケ崎義宗であるが、その事跡に関しては不明な点が多い。

貞和三年(1347)に戸ケ崎義宗は戸ケ崎に城を築いて城主となった。この時に矢田村から竈(かまど)神社を城内に転座したという。三年後の観応元年(1350)には矢田村に菩提所として佳岩寺を建立した。矢田村は祖父義清以来の城地であったが、その城館の位置は不明である。

そして明徳四年(1393)、道目記(西尾市上道目記町)の合戦で義宗は戦死してしまう。この戦いで多くの家臣と共に義宗の妻富波(となみ)姫も戦死したという。遺体は佳岩寺の北に埋葬され、現在は境内に墓が移されている。

この道目記の戦いは誰が相手でどのような戦いであったのか、またどんな家臣たちが戦死したのか、すべてが謎となっているのである。「西尾市史」では天文九年(1540)の織田信秀による安城の戦いの中で起きた小競り合いではなかったかとしている。しかし、年代的に合わないので謎は深まる一方である。

戸ケ崎義宗戦死の後の戸ケ崎氏はどのようになったのか、「西尾市史」には義宗以降の系譜を載せているが、「これらの人物ついては、拠りどころになるものが何もないので、語ることができない」としている。

戸ケ崎氏から分派した荒川氏(前期/荒川城)についても不明な点が多く、室町中期には断絶したものとされ、戸ケ崎氏も同様であったのかも知れない。

現在、戸ケ崎義宗が築城時に転座したという「竈神社跡地」の碑が城跡の一隅に残されている。


▲字城山の台状部分の遠景。

▲字城山の宅地地域の遠望。

▲字城山の台状部分。開発による土取りで残った部分であろうか。

▲「竈神社跡地」の碑。

▲佳岩寺。

▲佳岩寺墓地に移された戸ケ崎義宗(左)と富波姫(右)の墓塔。

----備考---- 
訪問年月日 2026年3月17日
 主要参考資料 「西尾の人物誌」
「西尾市史」他

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