川井代官所
(かわいだいかんしょ)

袋井市川井


▲川井代官所は江戸時代に袋井宿他八万石余の天領を支配した。
(写真・河川敷となった代官所跡)

袋井宿支配の代官所

かつての袋井宿の西の川井に袋井宿他八万石余の天領を治める代官所が置かれていた。現在は大正時代に原野谷川の河川改修工事によって代官所跡は河川敷となって消滅したが、歴代代官の墓塔が河川北岸の円通寺に残されている。

ここ川井に代官所が置かれたのは寛永十年(1633)のことである。袋井陣屋とも呼ばれた。

初代代官は宮崎三左衛門道次である。宮崎氏は戦国期には甲斐武田氏に属していたが、武田滅亡後は徳川氏に従って旗本に取り立てられた。三左衛門道次は信州駒場にて伊那谷の材木奉行を務めた後に川井代官として赴任した。寛文八年(1668)川井にて没。

二代代官として赴任したのが雨宮勘兵衛である。寛文八年(1668)下総国守谷の代官からの転任である。貞享2年(1685)川井にて没。

三代代官は美濃部五右衛門末茂である。貞享二年(1685)から元禄五年(1692)までで中泉代官へ転任した。

四代代官は井出治左衛門正基で元禄五年(1692)とされている。

五代代官は長谷川藤兵衛勝峯で元禄五年の赴任である。長谷川氏は天正十八年(1590)頃から島田代官を五代に渡って勤めていた。元禄十六年(1703)川井にて没。

六代代官は平岡十左衛門で元禄十六年から宝永二年(1705)までである。

七代代官は大草太郎左衛門政清で宝永二年に赴任。大草氏四代目の当主である。初代政吉は三河から山名郡新貝村(磐田市)に移住、元亀元年(1570)に徳川家康に召された。以後代々幕府領の代官を勤めた。正徳二年(1712)、中泉代官へ転任。

八代代官は南条金左衛門則明で正徳二年に赴任、同四年(1714)に豊後国高松、日田の天領代官へ転任した。

九代代官は岩室伊右衛門正次で正徳四年から享保七年(1722)までで、その後は中泉代官に引き継がれた。

円通寺境内に残る墓塔は川井で没した初代宮崎三左衛門道次、二代雨宮勘兵衛、五代長谷川藤兵衛勝峯のものとされている。


▲円通寺の山門。当所、代官所の移築門であったが、近年建て替えられたようだ。

▲円通寺本堂。

▲川井代官の墓塔。右が初代宮崎三左衛門、左が二代雨宮勘兵衛である。

▲左の笠の取れた墓塔が五代長谷川藤兵衛である。

----備考---- 
訪問年月日 2025年12月2日
 主要参考資料 「中泉代官」他

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