笠井城
(かさいじょう)

浜松市中央区笠井町


▲ 笠井城跡と伝えられる御殿山稲荷。

忠死の誉れ、
        笠井肥後守の故城

 天正三年(1575)長篠の戦い(設楽原古戦場)。武田勝頼率いる一万五千と織田信長、徳川家康連合の三万五千の大軍が設楽原で激突。信長の用意した大量の鉄砲戦術で武田勢は信玄以来の重臣の多くを犠牲にして敗退した。

 現在、長篠の古戦場史跡を訪ねると七十余ヶ所に石碑などが建てられて紹介されている。その内のひとつ、長篠城址から3`ほど寒狭川に沿って北上したところに「笠井肥後守、滝川某相討ノ地」の石碑が建てられている。武田勝頼が設楽原の戦いに敗れ、戦場を脱してここまで来たとき馬が疲れて動かなくなってしまった。これを見た笠井肥後守満秀が自分の馬を主君勝頼に勧め、自らは追手を喰い止めるためにこの地に止まり、徳川方の滝川助義と戦って討死を遂げた。という話しが伝えられている。滝川助義はこの時深手を負い、後日果てたので結果的に相討ちとなった。

 この笠井肥後守満秀の城がここ笠井城であると云われている。城跡といっても稲荷社があるだけで遺構らしきものはなさそうである。静岡県教委の中世城館跡の対象には含まれていないので単なる伝承に過ぎないのかと見過ごされてしまいそうでもある。

 ここ笠井城址の200bほど南に定明寺がある。この寺の開基が長禄二年(1458)笠井備後守定明となっているのである。寺の名もこの人からきている。したがってこの頃には笠井氏の城館が当地に築かれていたとしてもおかしくはないのである。

 笠井肥後守満秀(高利ともいう)が備後守定明の何代目になるのかは分からないが、所伝によれば南朝の臣新田義貞の配下で湊川の戦(1336)において敗走中に主君義貞に自分の馬を与えて踏み止まり足利勢と戦って討死した小山田高家の十二代の後胤であると云われている。奇しくも満秀は先祖と同様の死に方をしたことになる。小山田氏から笠井氏に至る系譜の詳細は分からないが、武田家重臣の小山田氏との縁によって武田方に身を投じたのであろうか。

 その後、満秀の子の孫右衛門慶秀は大谷吉継に仕え、関ヶ原後は井伊家に仕えたという(「長篠合戦余話」)。

 また他の伝承によれば、徳川家康は武田家ゆかりの側室於都摩の方に産ませた五男の万千代を慶長六年(1601)に元服させて武田家を再興させた。武田信吉と名乗った。翌年には水戸二十五万石(水戸城)の藩祖となり、水戸には武田の旧臣らが集まった。慶秀も弟とともに水戸へ赴き信吉に仕え、信吉急逝の後も水戸徳川家に代々仕えて明治に至ったとも言われている。

 満秀の戦死後、その忠死の美談は後世に語り伝えられたが、笠井城は荒廃するにまかせ、時とともに忘れ去られてしまった。

 明治二十九年(1896)、尾張の画工司馬老泉が笠井に来住、城址御殿山稲荷の復興に携わった。参道入り口の城址碑は老泉翁の書で、明治三十三年に建てられたものである。


明治33年(1900)に建てられた城址碑。

▲かつて城中守護として祭られていたという稲荷大神社。司馬老泉翁によって再興が図られた。


▲御殿山稲荷へと続く参道。忠魂碑参道の石碑が建つ。 

▲参道に入ってすぐ左側に城址碑が建っている。

▲稲荷大神社。

▲神社前に建つ石碑群。

▲老泉翁筆塚。

▲長篠古戦場史跡のひとつである「笠井肥後守滝川某相討ノ地」左側と「瀧川助義笠井肥後相討ノ地」右側の石碑(愛知県新城市出沢)。左が大正3年(1914)、右は平成元年(1989)に建てられた。


----備考---- 
訪問年月日 2009年3月7日 
 主要参考資料 「長篠合戦余話」
 ↑ 「浜松の史跡 続編」他 
 本文加筆 2010年9月8日 

 トップページへ遠江国史跡一覧へ