犀ヶ崖古戦場
(さいががけこせんじょう)

県指定史跡

浜松市中央区布橋


▲犀ヶ崖古戦場は三方原合戦で大敗して浜松城に逃げ
帰った徳川勢が寄せ来る武田勢に夜襲をかけたところである。
(写真・古戦場碑)

夜討ちして
      一矢を報いん

 元亀元年(1572)十二月二十二日、三方原において徳川勢を討破った武田勢は敗走する敵軍を追って犀ヶ崖北方に夜陣を張った。

 この崖は台地の水触亀裂によってできたV字谷である。

 一方、浜松城では軍議が開かれ、吉田城(豊橋市)への撤収案などが出ていた。しかし家康は夜襲を主張、大久保忠世も、
「いざ一夜討ちして敵に塩をつくべきなり」
 と進み出た。

 大久保忠世、石川数正、天野康景ら百余人と鉄砲組十六人は夜陰にまぎれて敵陣へ迫った。そして鉄砲の一斉射とともに斬り込んだ。

 奇襲を受けた武田勢は積雪のため道もわからず、次々と崖下へ重なり合って転落、阿鼻叫喚の地獄と化し、多くの犠牲を出してしまった。

 翌朝、武田勢は混乱する兵をまとめると撤収を開始、刑部(浜松市細江)へと移動した。

 その後、崖底からは戦死者の哭声が聞えたり、農作物の不作や疫病の流行、通行人がカマイタチの難に遭うなどの事が続き、その供養のための念仏踊りが広まった。

 この合戦で徳川方は崖に白布を渡して橋に見せかけ、敵兵を欺いたともいわれ、これが布橋の地名の由来となっている。

 江戸中期の俳人大島寥太は諸国吟行のおり、当地において一句を残した。

 「岩角に兜くだけて椿かな」

▲市街地にありながらここだけは多くの木々に覆われ、崖底は昼なお暗い。

▲犀ヶ崖資料館に展示されている「家康公兜前立勝軍地蔵尊」。家康17歳の初陣以来、陣中守護神として必ず護持していたという。家康の汗のしみ込んだ貴重なものである。

▲犀ヶ崖資料館。

▲徳川家達公お手植えの楠。昭和6年(1931)、三方原合戦360年を記念して16代家達(いえさと)公により植樹された。

▲物見台。崖っぷちに設置されている。

▲県指定史跡を受け昭和16年に建てられた。

▲本多忠真顕彰碑。本多平八郎忠勝の叔父で三方原から敗走する徳川勢のしんがりとなり、この辺りで討死した。

▲なぜか、ねずみ小僧次郎吉の供養塔がある。

▲2004年(平成16年)当時の古戦場碑。

▲同じく史跡碑。

同じく遠州大念仏発祥の地「宗円堂」。崖底に討死した将兵を 供養するため、僧宗円によって念仏踊りがはじまった。2020年現在、宗円堂は老朽化により取り壊され、資料館の駐車場となっている。
  
----備考----
訪問年月日 2004年6月5日
再訪年月日 2020年12月6日
主要参考資料 「三方原合戦」他