(しづじょう)
浜松市中央区村櫛町
▲ 志津城は井伊氏初代共保ゆかりの城として知られるが、その詳細につい
ては諸説あって伝承的なものとなっている。戦国期には今川方の大沢氏
の支配下にあったものと思われ、湖上監視の拠点となっていたようである。
(写真・採土で失われた城跡に建つ城址碑。2016年7月。)
井伊氏
伝承の城
平安時代、井伊谷の八幡宮の井戸脇で、八幡山地蔵院の和尚に拾われた赤子が後の徳川四天王のひとりに数えられ、彦根三十万石(彦根城)の大名となった井伊氏の祖、初代共保である。 長和五年(1016)、七歳になった少年は和尚の手を離れ、ここ志津城の城主藤原備中守共資の養子となって成長した(実子説もあり)。やがて共資の娘を娶り、共保と名乗った。一家の主となった共保は井伊谷に戻り、井伊氏を称して独立した。これが井伊氏のはじまりである。 と、伝えられているが、遠い昔のことであり、伝承の域を出ない物語であろう。 藤原共資は藤原鎌足の十二代の孫といわれ、勅を奉じて遠江国に下り、当地に居館を設けたとされている。共資は後に国司になったと言われるが、その居を移すことなく当地に住み続け、背後の丘(御山塚)に葬られたと伝えられている(現地パンフより)。 いずれにせよ、ここに城のあったことは確かであろう。創築者は志津三郎、平安中期頃のことである。彼がどのような人物であったかはわからない。 戦国期に入ると、浜名湖の湖上の往来を押える拠点として利用されたもののようである。十六世紀初頭には堀江城主として知られる大沢氏の支配下にあり、山崎権太夫、真瀬将監、山下七郎右衛門らの部将が在城していた。 その大沢氏も永禄十二年四月十二日、徳川家康と和睦するにおよび、志津城の城としての役目は終ったものとおもわれる。 現在、城址は明治以来、湖岸埋立てのための採土によって崩され、道路脇の木陰に石碑が建つのみである |
▲2003年当時の城址碑。 |
▲「日蓮大聖人御遠祖・村櫛村開創者・藤原備中守共資公之墓」。 |
▲2003年当時の城址碑の周りは草や 蔦に覆われていた。 |
▲城址南側から見た御山塚の丘。丘の 手前の道路脇(左)に城址碑が建つ。 |
▲2016年再訪時の城址碑。綺麗に除草 されて整備されていた。 以下はすべて2016年再訪時のもの です。 |
▲城址碑前に立てられた説明板。 |
▲墓碑の建つ丘の頂上は御山塚と呼 ばれている。山道の入口には駐車スペ ースが設けられている。 |
▲山道への入口には竹杖が用意され ていた。 |
▲御山塚へ続く山道。 |
▲入口からの距離は数分である。 |
▲案内板から石段を上がると頂上であ る。 |
▲広場があって曲輪を思わせるが、そ うではないようだ。 |
▲広場に建つ御堂。かなり老朽化してお り、立ち入り禁止となっていた。 |
▲御堂の裏に建つ藤原共資公の墓碑。 |