(くろだけだいかんやしき)
菊川市下平川
▲ 昭和51年に前面解体修理された黒田家長屋門。二千石の格式をもつと云われている。
槍を捨て、
民と共に生きる
天正二年(1574)五月、ここ下平川の土豪黒田九郎太夫義則は近在の土豪らとともに高天神城の城主小笠原長忠に属して武田勝頼率いる大軍を相手に籠城戦を続けていた。 今川滅亡後、遠江の国人土豪の多くは徳川家康を新たな主人として迎えたが、駿河を支配した武田は遠江への進攻を執拗に繰り返し、その版図を拡げつつあった。高天神城はその武田とせめぎ合う徳川方の最前線となっていたのである。 しかし家康の援軍もないままに五十余日が過ぎ、黒田義則ら近在の土豪や地侍たちの奮戦もむなしく和議開城となってしまった。城主小笠原長忠は城兵の助命と引換えに勝頼へ降伏したのである。 城兵の進退は自由とされ、浜松城の家康のもとへ行く者、また武田方に属して知行を得る者様々であった。だが義則はそのどちらにも属さなかった。代々受け継いできた下平川の地に戻り、槍を捨てて農に生きる道を選んだのである。 黒田家の先祖は源氏で足利下野守義次という武士が越前黒田荘に住んだことから黒田の姓を名乗るようになったと云われている。義次の三男式部少輔義理が遠江城飼郡の領地を継ぎ、義理の四男監物亮義重が同郡下平川を領して代が重なり義則へと受け継がれたと云う(「高天神記」)。 やがて戦国の世も終わり、泰平の世となった正保二年(1645)、岡崎城主本多忠利の死去により利長が岡崎城を継いだが、利長の庶兄である長男の助久は別家を起してここ下平川周辺四千五百石の旗本となった。本多助久は領地支配のために現地の有力者となっていた黒田家を代官に任じたのである。 以後、黒田家は明治に至るまで代官として続いた。水害の際には米蔵を開き、小船を出して被災者の救済にあたったと伝えられている。 |
▲ 屋敷の周囲をめぐる濠。濠底の中央部には侵入者を拒むためのものか、杭が並んでいる。 |
▲ 菊川市代官屋敷資料館。左奥の建物。 |
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画像の撮影時期*2007/07 |