足柄城
(あしがらじょう)

静岡県駿東郡小山町竹之下


▲足柄城は往古より関東の入り口となる足柄峠に街道を扼する
形で築かれた後北条氏の防塁である。しかし、肝心の守将らが
逃げ腰ではさしたる役目も果たせないまま落城となってしまった。。
(写真・本曲輪に建つ城址碑。)

関東の防塁

 足柄峠は古来からの交通路として存在しており、現在は県道78号となって車で簡単に往来できるが、かつては関が設けられて相模と駿河の国境を監視する要所であった。この関から東を関東と呼ぶ。

 この交通路の存在は古く、古事記の世界にまで遡る。倭建命が東国を平定する際にこの峠を往来しているのである。景行天皇四十三年(113)、東征の帰路、足柄峠に立った倭健命は相模の海を眺め、荒海を鎮めようと身を投じた妃の弟橘比売命(オトタチバナヒメ)を偲んで「吾妻はや」と嘆いたという。東国のことを「あづま」と呼ぶのはこの故事による。

 この峠に関が設けられたのは昌泰二年(899)に盗賊対策のために設けられ、天慶二年(939)には平将門がこの関を固めたことが伝えられている。伝承では天延四年(976)に源頼光が都への帰途、当地で坂田金時を家来にしたという金太郎伝説がある。また、源平の争乱期にも関が設けられており、国境の要地として動乱期には関が設けられて簡単な屯所が建てられていたようである。

 足柄城が城郭として整備され始めたのは明確ではない。駿河東部(裾野市)の国人大森氏によるとも言われているが、本格的に築城が進められたのは戦国期の後北条氏によってであろう。関東に覇を唱えんとする後北条氏の防塁として。

 天文六年(1537)、甲斐の武田信虎と駿河の今川義元が同盟した際に両者と敵対関係となった北条氏綱が国境警備のために築城したとされる。天文二十四年(1555)、北条氏康が足柄城の普請を実施したとされ、足柄城が城としての体裁を整えつつあったことがうかがえる。

 この頃、甲・相・駿三国同盟によって三国間の緊張状態は緩和されたが、永禄六年(1563)頃から甲・駿の関係が悪化しはじめた。

 永禄十一年(1568)、武田信玄が駿河への進攻を開始した。北条氏康は今川氏真を援けるために駿河東部に派兵、武田氏とは敵対関係になった。

 翌十二年(1569)、北条氏は武田氏との抗争に対応して諸城の防備を固め、足柄城にも石切職人を派遣して城普請を行い在番を命じている。その後も武田勢の駿河進攻の度に、元亀二年(1571)、天正七年(1579)と修築を繰り返している。

 天正十年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると駿河は徳川家康の領国となり、北条氏は対徳川に備えるために足柄城を強化することになる。いよいよ足柄城が北条氏にとって防衛上の重要拠点となってゆくのである。北条氏直は「足柄当番之事」という十四ヵ条の城掟を発して城への出入り、城外の通行を厳しく規制、不審者の殺害まで指示しているようだ。峠と街道を取り込んだ形態の足柄城がこの頃には出来上がっていたものと思われる。

 天正十五年(1587)頃から北条氏直は豊臣秀吉との対決に備えて軍備の強化に努めるようになり、足柄城には叔父氏光を在番とし、山中城韮山城とともに城の普請を強化した。

 天正十八年(1590)三月、豊臣方の軍勢が沼津周辺に集結したのを受けて北条氏忠が鉄砲・弓・槍隊及び足軽百人を率いて足柄城の守りに就いた。

 三月二十九日、東海道の盾として期待された山中城がわずか半日で豊臣方の猛攻によって潰えた。足柄城守将の北条氏忠は山名か城の落城を聞くと北条家臣の依田大膳亮に守備を任せて小田原城へ引き返してしまった。

 三十日、山中城攻めに加わっていた徳川勢の井伊直政隊が足柄城に迫った。翌四月一日、すでに本隊の去った足柄城で依田大膳亮は形ばかりの抵抗をしただけで城を脱したようだ。城は井伊勢によって呆気なく落とされてしまった。

 その後、足柄城の名は世に出ることは無く、落城後ほどなくして廃城となったものと見られている。


二の曲輪から見た三の曲輪とその間の堀切跡

▲本曲輪と二の曲輪の堀切。
 ▲足柄峠。標高759mである。
▲足柄之関跡。

▲聖天堂前の金太郎像。

▲登城口。階段を上がると本曲輪である。手前の道路は県道78号。

▲登城口階段前の城址碑。

▲本曲輪。公園化のために整地され遺構の多くが破壊されたという。

▲本曲輪北側の玉手池。井戸跡の可能性も考えられている。

▲本曲輪に建つ城址碑。晴れた日には富士山の絶好の撮影スポットとして知られている。

▲二の曲輪からの展望。あいにくの曇天であった。

▲二の曲輪。

▲本曲輪から神奈川県側の山の守曲輪の間の吊り橋。

▲県道から見た吊り橋。

▲県道の左側が本曲輪のある静岡県、右側が山の守曲輪の神奈川県となる。

▲神奈川県側の山の守曲輪の社。

▲新羅三郎義光吹笙之石。後三年の役で源義家の援軍として弟義光は奥州へ向かった。その途次、この石に座り笙の奥義を豊原時秋に伝授したという。

----備考----
訪問年月日 2014年6月21日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会
「静岡の山城ベスト50を歩く」他

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