(かんばらじょう)
市指定史跡
静岡県静岡市清水区蒲原
▲ 蒲原城一の曲輪(本曲輪)から南東方向の展望。直下の
平場は善福寺曲輪で物見櫓や逆茂木などが再現されている。
駿河の堅城、
策に落つ
当初の蒲原氏は後の今川系蒲原氏とは別で藤原為憲の裔で蒲原荘に土着した清実が土地の名を名乗ったのに始まると言われている。鎌倉時代には駿河武士団の中にその名が記され、その活躍が伝えられている。南北朝時代には狩野、入江の諸氏とともに南朝勢力として活躍しており、この蒲原城が築かれたのもこの頃ではなかったかと推測されている。 同じ頃、駿河守護として今川範国が入府、南朝方を追い詰めていた。やがて駿河の南朝勢力は没落して歴史の表舞台から消え去ることとなる。 今川範国の三男氏兼が蒲原氏を称したとされるが、その孫氏頼が永享四年(1432)の将軍義教による「富士遊覧」の警護の功によって蒲原城と蒲原庄を賜ったことにより始まるとも言われている。つまり関東(鎌倉公方)に謀反あればこの蒲原城にて食い止めろということであったようだ。 氏頼の曾孫満氏の頃には将軍家の御家人というより、守護大名今川家の一門衆として活躍、蒲原城は富士川以西を防衛する重要拠点として機能した。満氏は延徳三年(1491)の興国寺城主伊勢盛時による茶々丸討伐にも今川の援軍として加わっている。 天文五年(1536)、満氏没して長男氏徳が蒲原城と所領八百貫を継いだ。天文十四年(1545)頃には今川家臣飯尾豊前守が城番であったと伝えられている。 永禄三年(1560)の桶狭間による敗戦で今川当主義元が討たれ、蒲原氏徳も討死した。 その後の今川氏の衰退は急坂を転がり落ちるが如くで、駿河東部には今川支援の名の下に北条勢が進出、永禄十一年(1568)には北条家臣布施佐渡守康則が蒲原城の在番となった。 翌永禄十二年(1569)一月には早雲の孫として知られる北条新三郎綱重が城主となって本郭を大改築したという。すでに武田・今川の同盟関係は破綻しており、この時の改築は対武田戦を想定したものであった。 十一月下旬、本栖街道を南下して駿河に進攻した武田信玄は十二月五日には蒲原城下を焼き払った。翌日、武田勝頼を大将として蒲原城の攻撃が始まった。 勝頼は天険の要害に築かれた蒲原城を力攻めに落とすことを避け、兵を二分して一隊を城外に伏せ、一隊を自ら率いて城下を素通りして見せたのである。 城内ではこの様子を見て勝頼を討取る絶好の機会と判断、城門を開いて一斉に追撃にかかった。 ところが、手薄になった城内に武田の伏兵が攻め込んだのである。城を打って出た北条新三郎は敵の策にはまったと悟ったが時すでに遅く、勝頼の猛反撃によって新三郎以下城兵のことごとくが討死して蒲原城は落ちた。 この合戦では武田勝頼や武田信豊の奮戦が称えられ、北条新三郎綱重・長順兄弟、清水、笠原、狩野の諸氏他の城兵が全滅した激戦であったことが伝えられている。 その後、武田氏によって近在の小土豪をもって蒲原衆を組織し、城の守備に充てたといわれている。 天正十年(1582)二月、徳川勢の攻撃によって落城、天正十八年(1590)三月の小田原征伐における徳川勢の着陣を最後に廃城となったようである。 |
▲一の曲輪と善福寺曲輪の間に掘削された大堀切の跡。 |
▲ 城址碑とともに一の曲輪跡に建つ北条新三郎を顕彰する石碑。中央に刻まれた「善福寺殿衝天良月大居士」は北条新三郎の戒名である。 |
▲ 蒲原の街から善福寺に至る道路沿いに「駿河国蒲原城」の白い案内板が立っている。 | ▲ 駐車場から城址に至る登城路に設けられた城址俯瞰図。説明板とともに立っている。 |
▲市指定史跡蒲原城址の説明板。 |
▲一の曲輪跡には城山八幡と呼ばれる神社が建っている。 |
▲一の曲輪(本曲輪)跡に建つ「史跡蒲原城址」の碑。 |
▲ 一の曲輪から駿河湾を展望。右側の海に突き出たところは東海道の難所薩垂峠である。 |
▲ 大堀切から善福寺曲輪に向かう。物見櫓と逆茂木が再現されている。 |
▲ 静岡市によって発掘調査された際に出土した遺物の案内板。南北朝中期の瓶子片から武田勢との戦いで使われたであろう火縄銃の玉などが発掘されている。 |
▲ 善福寺曲輪から見た駿河湾。北条勢との激戦の後、武田の兵たちに青く広がる海はどのように映ったのであろうか。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2010年5月2日 |
主要参考資料 | 「日本城郭大系」 |
↑ | 「静岡県古城めぐり」 |
↑ | 「静岡県の城物語」他 |