永禄十一年(1568)、織田信長は滝川一益に先鋒を命じて北伊勢を攻略した。滝川一益はその後も各戦線で活躍、長島一向一揆討伐(長島城)後には信長から北伊勢五郡を与えられた。この時に三重郡の代官として家臣南川治郎左衛門を菰野に配した。これが菰野城の始まりである。まだ、城というより砦程度の簡略なものであったと思われる。
天正十一年(1583)、織田家の後継争いから滝川一益は柴田勝家方に付いたが羽柴秀吉と戦って敗北、北伊勢は織田信雄のものとなった。菰野の地は信雄家臣の土方雄久に与えられた。しかし、雄久は天正十五年(1587)には犬山城に移り、豊臣時代には能登に一万石を賜っている。
慶長四年(1599)、大坂城で徳川家康暗殺の噂が流れ、これに関与していたとして土方雄久、雄氏父子は常陸国太田に追放となったが、翌慶長五年(1600)の関ヶ原合戦直前に雄久は蟄居を許され、家康の命を受けて従兄弟の前田利長の出陣を思い止まらせることに成功した。この功により、雄久は能登の旧領に復帰し、雄氏は菰野と近江に一万二千石を拝領して父子共に大名となった。
菰野に入部した土方雄氏は滝川時代の代官所跡に陣屋を構えて菰野藩が成立した。この立藩を期に、かつて織田信雄と父雄久との間で約されていた婚儀が挙げられることになった。相手は信雄の娘八重姫である。こんな話が伝えられている。「堀もないような城の主には娘はやれない」と言われたとか。雄氏は昼夜兼行二日がかりで幅6mの堀をめぐらして体裁を整え、めでたく八重姫を迎え入れたというのである。
実際に陣屋と城下町が整備されたのは二代雄高の時とされる。雄高はよく下情に通じ、善政をしいたと言われる。
その後、菰野藩は土方氏が転ずることなく初代雄氏から十二代雄永まで続いて明治に至った。
慶応四年(1868)、十二代藩主雄永は勤皇を誓い、伊勢四日市の警衛などに兵を出して新政府に協力した。この年に雄永は妻益子姫を迎えるために領民の協力を得て急遽城の堀と角櫓の工事を行った。堀は東西92間(約167m)、南北73間(約133m)、幅4間(約7.3m)で櫓は二層で築かれた。初代雄氏と八重姫の逸話に似ている。
また、菰野藩は江戸時代を通して一揆が起こらなかった藩でもある。
明治四年(1871)、菰野県廃止に伴い廃城。明治六年(1873)、藩邸は取り壊され、藩校「顕道館」跡に菰野小学校が建てられ現在に至っている。
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