(くくりじょう)
岐阜県可児市久々利
▲久々利城は美濃国守護土岐氏の一族久々利氏の居城で
ある。代々悪五郎の名を称し、豪勇の士であったとされる。
(写真・三の丸と二の丸の切岸)
城主悪五郎
足利尊氏と共に倒幕に活躍した土岐頼貞は建武の新政(1333)で美濃国守護に任ぜられ、以後戦国期に至るまで美濃国守護は土岐氏が継承した。土岐氏は美濃国内に一族を配置して「桔梗一揆」と呼ばれるほどの支配体制を敷いて行くことになる。 頼貞の六男伊予守頼清の嫡男頼康が惣領家を引き継ぎ、四男の三河守康貞が久々利に拠点を構えた。この時をもって久々利城の創築とされている。時は南北朝の争乱期である。康貞は大力の勇将だったらしく、悪五郎と称した。文和元年(1352)の正平一統時の京都奪回戦で足利義詮の戦陣にあった康貞は敵将と一騎打ちの末に討死。嫡男康頼が久々利城主を継いだ。 康頼は行春とも呼ばれ、久々利氏を称し、代々三河守または悪五郎を名乗ってゆくことになる。その後、何代か続いて天文の頃(1532-55)には久々利悪五郎頼興が城主となっていた。 頼興も家祖康貞に劣らぬ大力でその武勇は四隣に轟いていたと言われる。この当時、東濃(土岐郡、可児郡周辺か)十四諸将の旗頭として稲葉山城主斎藤道三の養子斉藤大納言正義が烏峰城(後の金山城)を築いて近隣を統べており、頼興も斉藤正義に服属していた。 この斉藤正義、道三とは同等であるとの意識が強かったと言われ、道三から疎まれていたらしい。そうした状況を察してか天文十七年(1548)二月、頼興は正義を酒宴に誘い、久々利城へ招いて酔い潰し、謀殺してしまった。同時に頼興は手勢五百をもって烏峰城を落とし、一族の土岐十郎左衛門を城代とした。 その後、頼興は斎藤義龍そして斉藤龍興に仕え、永禄八年(1565)には織田信長に降り、金山城主となった森三左衛門可成そして可成亡き後は家督を継いだ長可に仕えた。長可が信州川中島に移った後は信長の近習で長可の弟蘭丸(成利)の持ち城となった。 天正十年(1582)の本能寺の変後のどさくさで頼興は近隣諸氏と共に挙兵、金山城に戻った長可に対抗したが劣勢となり、和睦している。頼興は年下の長可を軽視していたと言われ、その横柄な態度から長可に疎まれていたようである。 翌年(1583)正月、森長可は頼興を金山城に招き、酒肴でもてなした。頼興は酩酊状態で帰路についたところを襲われ謀殺されてしまった。刺客は斎藤正義の孫で森家家臣の加木屋正則であったとされる。長可はその夜のうちに久々利城を攻め落とし、家臣戸田勘左衛門を城代とした。 この頼興の死をもって久々利氏は断絶、慶長五年(1600)二月に長可の後継忠政の川中島松代城移転により久々利城は廃城となった。 関ケ原合戦後、千村平右衛門良重が久々利城下に陣屋を構え、明治に至った。 |
▲本丸から二の丸、三の丸を見下ろす。 |
▲城址北端の堀切跡。 |
▲可児郷土歴史館前野駐車場に駐車。 |
▲久々利城址は歴史館の北側山上にある。登城口に行くには県道84号安土桃山街道を横断する。 |
▲道路を横断すると登城口である。幟旗や石碑、説明板が立ち並んでいる。 |
▲説明板の縄張図。 |
▲登城口に建つ城址碑。 |
▲久々利城由来碑。 |
▲登城開始。 |
▲登り始めてすぐにパンフレット置き場が設けられている。 |
▲登城路は石段で整備されている。 |
▲登り始めて数分で虎口に到着。 |
▲枡形虎口。 |
▲枡形の曲輪内に掘られた井戸跡。 |
▲枡形から登ると。 |
▲三の丸である。 |
▲三の丸からさらに登ると二の丸である。 |
▲二の丸から三の丸を見下ろす。 |
▲二の丸から本丸を見上げる。 |
▲本丸。 |
▲本丸から見張台方面を見る。 |
▲見張台の東端。 |
▲天空の見張台の看板。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2021年10月9日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」 |
↑ | 「岐阜県の歴史」他 |