この城は天正九年(1581)の第二次天正伊賀の乱の際に滝川三郎兵衛雄利(雄利と名乗るのは天正十年以降)によって築かれた陣城である。
滝川雄利は伊勢国司北畠氏一族である木造氏(木造城)の血を引くとも言われ、若くして出家していたが、永禄12年(1569)の織田信長による伊勢攻略戦の際に先鋒滝川一益の調略に応じて主君木造具政を織田方に寝返らせた。一益は源浄院(雄利)の才を見込んで婿とし、滝川を名乗らせた。北畠氏攻略後は織田信雄の家老として活躍、伊賀攻略戦に貢献することになる。
伊賀攻略は伊勢を掌握した織田信雄(北畠信意)の次なる目標であった。天正六年(1578)二月、伊賀郷士下山甲斐の帰属によって信雄は直ちに足掛かりとする伊賀丸山城の修築のために雄利を派遣した。丸山城は伊賀盆地の中央に位置しており、かつて北畠氏最後の国司北畠具教が隠居城として築きかけていた城である。雄利は石垣の天守台に三層の天守を上げて壮大な城郭を築こうとしていた。
ところが、この城が完成しては一大事と伊賀郷士衆は完成前に奇襲攻撃を行った。雄利以下の滝川勢は不意を突かれて伊勢へと敗走した。
天正七年(1579)、信雄は独断で八千の軍勢をもって伊賀へ乱入したが地の利を得た郷士衆の抗戦によって甚大な損害を出して失敗してしまった。この敗戦を知った信長が激怒して親子の縁を切るとまで言わしめたことはよく知られている。
天正九年(1581)九月、石山本願寺を屈服させた信長は信雄を総大将として五万の軍勢を伊賀に進攻させた。雄利は伊勢衆を率いて加太口(亀山市加太)から侵攻した。やがて伊賀衆の籠る平楽寺(上野城)が落ち、比自山城の伊賀衆も南部の柏原城へと避退した。
九月中旬には柏原城以外の殆どが織田方によって制圧された。雄利は柏原城攻めに備えて、兵糧物資の集積及び兵の駐屯地として見通しの効く当地に築城した。この城が滝川氏城である。ほどなくして柏原城も落城して伊賀の乱は終息した。
乱後の十月十二日、信長が信忠、信澄を伴って当城を見舞(見分)つたことが「信長公記」に記されている。
信長は伊賀国四郡の内三郡を信雄に与え、信雄は雄利を伊賀守護として現地を支配させた。この際に当城は南伊賀支配の拠点として雄利の家臣が配されたという。
天正十二年(1584)、小牧長久手合戦後、伊賀国は筒井定次の所領となり、雄利は北伊勢に移されて当城は廃されたものと思われる。
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