岩作は「やざこ」と読む。長久手市のほぼ中心部の地名で、市役所の所在地でもある。この市役所の前に「岩作城址」の碑が建てられている。天正十二年(1584)当時、この辺りは長久手合戦の戦場となったところである。
城址の発掘調査は昭和60年(1985)から3次にわたって実施され、14世紀から17世紀の城跡であることが確認されたということである。年代幅の長さからみて築城から廃城に至る具体的な年次の特定は発掘調査からは得られなかったものと思われる。城の規模は地誌などに東西44間、南北32間、四囲に土居が幅2間あったことが記されている。だいたい90m×70mくらいの方形単郭の居館城であったようだ。
遺構は都市化が進むまで土塁や虎口跡などがみられたというが現在ではJAや店舗用地となって消滅してしまった。
さて、城の歴史である。これもあまり詳しいことは分らないようだ。「尾張誌」や「張州府志」といった地誌に今井五郎太夫、今井四郎兵衛といった名が居住者として記されている程度である。
この今井氏がいつ頃からこの城に居住するようになったのかは当然分らない。ただ、天正十二年(1584)の長久手合戦の際に岩崎城に籠城して戦死した将士の中に今井四郎三郎の名が見られ、彼を四郎兵衛の子ではないかと「尾張誌」では推考している。
たしかに長久手合戦時の岩崎城籠城将士の中には今井姓の者が何人か記されている。今井四郎三郎の他に今井七右衛門、今井小右衛門、今井助八郎、今井小八郎(家老)といった名がみえる。
ちなみに、岩崎城は長久手合戦時に岡崎奇襲を目的とする羽柴秀吉方の池田恒興隊によって攻め落とされ、籠城の将兵三百名ほどのことごとくが討死してしまったのである。今井七右衛門は諱は勝澄といって、もとは武田信玄に仕える使番十二人衆の一人であったと言われ、武田滅亡後は徳川家康に仕えていた。彼は、戦場では使番の旗印である青地に百足を金で描いた旗指物を背に指して戦い、籠城戦の時には敵八、九人を討取った末に討死したという。
武田滅亡後、家康に召し抱えられた武田旧臣今井氏の親類が当地に城館を構え、長久手合戦時には親族こぞって岩崎城主丹羽氏の配下となって籠城したものかもしれない。
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