市指定史跡
千葉県南房総市白浜町白浜
▲ 海岸線に並行して屏風のようにそそり立つ白浜城址。東西約1km
にわたってその尾根上に曲輪が配されている。里見氏が稲村城に居城を
移した後も廃城とはならず、三代義通が隠居して後に居城としていた。
南総里見氏
最初の城
嘉吉元年(1441)四月、結城城(茨城県結城市)落城。鎌倉公方足利持氏の遺児安王丸、春王丸を奉じて、驕敵関東管領上杉氏に一矢を酬いるべく公方方の旧臣が結集して決起した戦いも鎌倉公方を滅ぼした上杉方の大軍の前に玉砕してしまった。 この結城籠城軍の中に里見修理亮の名があった。彼は安房里見家初代義実の父家基であるとみられている。 家基は落城に際し、 「わしはこれより敵軍に駆け入り討死する。されどお前はここを落ちて公方様復活の日に備えよ」 と義実に云ったかもしれない。 無論、義実自身が伝説的な人物であるので、このへんのところはよくわからない。その出自に関しても別の見方もある。それは、持氏の遺児のひとりで信濃に潜んでいた永寿王丸が復活鎌倉公方足利成氏として下向する際に美濃里見氏がこれに従い鎌倉入りして関東の里見氏を継いだというのであり、それが義実ではないかというのである。 しかし「鎌倉大草紙」には、 「持氏の御供に討死しける里見刑部少輔家基が子左馬助義実は房州より打て出、上総半国を押領し鎌倉へ参る」 とある。 これは足利成氏が復活鎌倉公方として鎌倉入りした翌年、宝徳二年(1450)のこととして記されているもので、成氏とともに鎌倉入りしたとすると、里見義実はわずか一年で安房と上総半国を制したということになり、無理があるように思われる。 やはり、結城合戦の後に安房へ渡ったものとみることができようか。 そして安房への第一歩をしるした地がここ白浜であるとされている。当時、白浜城には管領上杉方の木曾氏が拠っていた。 安房への渡海を前に三浦半島にいた義実はまず安房国内の公方方(安西氏)と連絡を取り、上杉方の動静を探ると同時にこの木曾氏に対する調略を進めた。 義実は木曾氏の公方方への寝返りが確かなものとなった時点で安房へ渡海し、白浜野島崎に上陸して白浜城に入ったものとみられる。 これが南総里見氏のはじまりとなる。 安西氏や木曾氏を協力者にした義実は上杉方の諸氏を次々と平らげながら数年後にはその居城を安房国府に近い稲村城(館山市)へと進めた。 ただ、この間の詳細な経過や年次については残念ながら霞みに覆われたようで判然としない。 ともかく、この白浜城を義実が最初の拠点として安房平定に乗り出して行ったことだけは確かなのであろう。 |
▲城址の登山道はかつての大手口に比定されている。城全体が自然の地形をそのまま利用したもので土塁や堀切は見られない。この切通しも自然の侵食によるものか。 |
▲城址山頂から野島崎を望見。 |
▲白浜城跡説明板。 |
▲登山道。 |
▲城址登山口の青木観音堂。ここには里見六代義堯が奉納したといわれる賓頭慮尊者坐像が安置されている。 |
▲青木観音堂の説明板。 |
▲青根原神社。 |
▲城址登山口近くの青根原神社前には里見二代成義の墓碑がある |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2007年5月3日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」他 |