真田庵
(さなだあん)

県指定史跡(真田屋敷跡)

和歌山県伊都郡九度山町九度山


▲真田庵は関ケ原の戦いの後真田昌幸、信繁(幸村)父子らが
配所として屋敷を構えたところである。配流十一年後、昌幸はここ
で没した。その三年後、信繁は豊臣に請われて大坂城に入城した。
(写真・真田昌幸墓地と真田地主大権現。)

炬燵して語れ真田が冬の陣

 慶長五年(1600)、下野国犬伏(栃木県佐野市)で上杉討伐の陣中にあった真田昌幸は長男信幸を徳川方に残し、次男信繁(幸村)と共に石田三成の挙兵に応じて上田城に籠った。上田城には徳川秀忠の大軍が押し寄せたが、昌幸、信繁らは奮戦して徳川勢に大きな損害を与えた。このために秀忠軍は関ケ原の本戦に間に合わなかったとも言われている。

 石田三成ら西軍の敗戦後、昌幸は降伏開城に応じ、信幸と舅本多忠勝の助命嘆願によって死罪を免れて高野山蟄居となった。昌幸、信繁の配流生活のはじまりである。

 同年十二月、昌幸と信繁(妻子同伴)と家臣十六人が上田を発して高野山に向かった。ちなみに随伴の家臣は池田長門、原出羽、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵の面々であった。

 一行は高野山の手前、細川という地に留まり、昌幸、信繁らは真田家の菩提所である蓮華定院に入ったようである。しかし、高野山は女人禁制であるのと大所帯であったためか後に蓮華定院の計らいでここ九度山が配所とされた。

 九度山には昌幸、信繁の屋敷に加えて家臣らの住居も造られたというから配流というより移住といった感がある。行動範囲も川淵上下五丁(約1.1km)とされていたから、紀ノ川に釣り糸を垂らすこともあったかもしれない。しかし経済的にはさすがに厳しかったに違いない。監視役の浅野氏(和歌山城主)からは毎年五十石が給せられていたが、家臣や従者らを養うことは無理で、昌幸は国元の信幸に幾度も無心の手紙を出していたことが伝えられている。

 それにしても、戦国の荒波をかいくぐってきた昌幸にとっての閑居生活は退屈この上ないものであったに違いない。慶長十六年(1611)、昌幸は赦免の日の来ることを待ちつつも病を得て没した。享年六十五歳。昌幸の死によって多くの家臣が国元に戻り、高梨内記と青柳清庵だけが信繁のもとに残ったと言われる。

 昌幸没後三年の慶長十九年(1614)、大坂城の豊臣秀頼、淀殿母子に対する徳川家康の挑発は八月の方広寺鐘銘事件を機に露わとなり、十月には双方手切れとなって豊臣方は戦争準備に入った。

 ここ九度山にも大坂からの密使が訪れ、黄金二百枚と銀三十貫、勝利の後には五十万石を与えると伝えてきた。十月九日、信繁は浅野氏の監視をくらますために村人たちを屋敷に呼んで酒食を振る舞い、酔い潰れたのを見計らって九度山を立ち退き、闇夜の中を大坂城へ向かったと言われる。付き従う者、五十余騎であったという。

 信繁がどのような思いで大坂へ向かったかは知る由もないが、流人のまま朽ち果てるよりも野望をむき出しにした家康へ一矢を報い、武士としての最期の華を咲かせようとしたのかも知れない。

 大坂の陣の後、屋敷跡には昌幸の墓と松が残り、立ち入りが禁じられたという。八代将軍吉宗の寛保元年(1741)八月、大安上人により屋敷跡地に善名称院が建立され、真田庵として現在に至っている。


▲真田屋敷跡に建つ善名称院真田庵。

 ▲丹生川沿いの県道13号。「真田庵」の案内標識がある。

▲案内標識から路地に入るが車では無理である。県道沿いの町の駐車場から徒歩で向かう。

▲白い塀の中が真田庵である。

▲門を入るとすぐ左に「真田幸村公旧跡」の碑がある。

▲玉垣は真田昌幸の墓と真田地主大権現の社を囲んでいる。

▲真田昌幸の墓地は九度山町指定文化財となっている。

▲真田地主大権現。真田昌幸、幸村、大助の三代の御霊を地主大権現として祀ったもので寺の守護神とした(パンフより)。

▲中央の墓塔が真田昌幸公の墓である。

▲善名称院。広縁にはおみくじ箱が並んでいた。

▲宝物資料館。

▲「真田父子四百回忌碑」。右の石碑には「かくれ住んで花に真田が謡かな」と蕪村の句が彫られている。他に「炬燵して語れ真田が冬の陣」の蕪村の句碑もある。

▲県指定文化財真田屋敷跡の説明板。

----備考----
訪問年月日 2016年2月6日
主要参考資料 別冊歴史読本-戦国・江戸 真田一族」
「武将列伝 5」他

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