三好長慶の寵臣松永久秀が大和平定のために軍を発して信貴山城を奪取したのは永禄二年(1559)八月のことであった。久秀は信貴山城を拠点として翌年中には大和北部をその勢力下に置き、新たな支配拠点として興福寺(大和の中心勢力)の北約1.4kmの眉間寺山に城を築いた。多聞城である。城内に多聞天が祀られたためにそう呼ばれたという。
多聞城は奈良盆地の北端に位置して京都へ繋がる街道を扼するという戦略的な要地に築かれているが、それだけではなかった。主郭の塁線上には白壁、瓦葺の長屋状の櫓が取り巻いていた。後の近世城郭にはつきものの多聞櫓は久秀の考案したものであったのだ。御殿の豪華さも目をみはるもので、久秀の財力がいかに他を凌いでいたかが分かる。さらに四階櫓が主郭にそびえ建っていたという。後の天守閣の先駆けとなったものといえる。久秀の城造りを見ると旧弊にとらわれることなく新発想を具現化しようとしていたことが分かる。
永禄四年(1561)に久秀は居を信貴山城から多聞城へ移し、築城工事を監督しつつ大和平定を進めた。永禄七年(1564)、主君三好長慶が没した。翌八年(1565)には将軍足利義輝が三好三人衆や久秀の子久通らによって殺害される事件が起きた。勢いに乗る三好三人衆は新将軍義栄と長慶の甥義継を担いで今度は久秀討伐に乗り出してきたのである。
永禄九年(1566)は三好方との戦いで和泉堺に敗戦(上芝の戦)、領国摂津の諸城が落城、大和国人筒井順慶が勢力を盛り返すなどして久秀にとっては窮地に陥った年となった。窮状は翌十年(1567)になっても変わらす、三好、筒井方は東大寺に布陣して指呼の距離にある多聞城の松永勢を包囲した。双方の対峙が半年ほど続いた十月十日深夜、久秀は戦局を打開すべく多聞城を打って出て東大寺へ夜襲を敢行、三好勢を敗走させることに成功した。この時の兵火で大仏殿が焼失している。世間では久秀の夜討ちで大仏の頭が焼け落ちたと言い、悪逆非道の所為と非難が集中したようだが、よくよく考えてみれば、戦するのに社寺に陣取る方が卑怯なのではないか。大仏殿焼失の責任は三好方にあろうか。その後も三好方との戦いは各地で続き、永禄十一年(1568)六月には信貴山城を落とされ、多聞城の久秀の窮状にあまり変化は無かった。
この年九月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした。久秀は茶入「九十九茄子」を進上して信長に降り、「大和一国切り取り次第」として信長は佐久間信盛、細川藤孝ら二万の軍勢を久秀の加勢に送った。多聞城に逼塞していた久秀は息を吹き返したように信貴山城を奪還、さらに筒井順慶を圧迫して大和の支配を広めた。
ところが、信長に頑強に抵抗する石山本願寺が武田信玄らと連携して信長包囲網が形成されると久秀もそちらに与することを考え、元亀三年(1572)ついに信長に反旗を翻したのである。久秀は信貴山城に拠り、多聞城には子の久通が籠城した。
しかし、武田信玄が三河の戦陣で病没、足利義昭が追放されるに及び、織田軍は多聞城を包囲したのである。久秀は抗戦の非を悟り、包囲軍の将佐久間信盛を通して多聞城を譲ることで信長に降伏した。 織田方の城となった多聞城は明智光秀や柴田勝家の管理下に置かれたとされる。天正二年(1574)、信長は香木「蘭奢待」を切り取った時に多聞城を検分している。四層の天守や派手な御殿を見た信長は後に安土城を築城する際の参考にしたとも言われている。
天正三年(1575)、織田家臣塙直政が大和守護となって多聞城城主となった。翌年、直政は石山本願寺との戦いで戦死、替わって筒井順慶が大和守護となった。順慶は元亀二年(1571)に明智光秀の仲介で信長に服属していたのである。
順慶が守護となった天正四年(1576)、順慶は多聞城に入らず、信長の命により破却を開始し、石材は筒井城、そしてその後の郡山城に転用された。
天正五年(1577)、松永久秀は再び信長に反抗して信貴山城に籠城、「平蜘蛛」の茶釜と共に爆死して果てた。
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