八木邸
(やぎてい)

京都府京都市中京区壬生

八木邸長屋門
▲ 八木家長屋門。八木家は越前朝倉氏を祖としており、門には「三ッ木瓜」の紋の幔
幕が出され、「誠」の新選組隊旗が訪れる人々を幕末の時代へと誘ってくれる。

松平肥後守御預
        新選組宿

 文久三年(1863)二月十三日、将軍上洛警護のために集められた浪士組が入京、ここ壬生村に分宿した。この浪士組に加わった近藤勇以下の試衛館の面々は郷士八木源之蒸の屋敷を宿所とすることになった。同時に芹沢鴨らの水戸浪士たちも同宿となった。芹沢らが主屋を、近藤らは離れ(現在は無い)を宿所とした。

 数日後、清川八郎が江戸帰還を宣言。しかし近藤、芹沢らはこれに反対して京に留まることになった。

 以後、西本願寺に屯所を移すまでの三年間、ここ八木邸が新選組の屯所として使われ続けることになるのである。

 その後、新選組は八月十八日の政変(会津と薩摩による長州勢の駆逐)、将軍上洛の警護、池田屋事件、禁門の変へと、歴史の表舞台にその身をさらしてゆくことになる。そして長州系の志士を探り出しては不逞浪士として取締る斬劇の日々。やがて新選組は壬生の狼「みぶろ」と呼ばれ、京の人々に恐れられてゆく。

 こうした新選組の活躍と成長を、この八木邸はただ眺めていたのではなかった。八木邸そのものも彼らの血闘の舞台となっていたのである。

 芹沢らの粛清がそれである。

 市中における芹沢らの乱暴狼藉はその度を越えていた。軍資金の供出を断った商家に大砲を撃ち込んで火を付けたり、また島原の角屋という揚屋で大暴れして七日間も営業不能の状態にしてしまったりという具合である。新選組の親代わりである会津藩からも芹沢一派の処置を近藤に伝えてきたという。

 文久三年九月十八日、角屋で新選組の会合がもたれ、そのまま宴会となった。芹沢らを泥酔させるのが近藤、土方らの目的であった。

 まず芹沢鴨、平山五郎、平間重助が中座して壬生へ戻った。その後を土方歳三、沖田総司らが追うようにして壬生へ戻った。土方は八木邸で芹沢らと再び酒盛りしたともいわれている。

 ともあれ、したたかに酔った芹沢は愛人のお梅とともに主屋の座敷に戻り眠った。平山は島原のお栄とその西側に、平間も島原の糸里と寝部屋にそれぞれ寝入った。

 午前零時過ぎ、土方と沖田が芹沢を、原田左之助と山南敬助が平山を襲った。平山は即死、芹沢は脇差で応戦しつつ隣室へ逃げたが手習い机につまずき、倒れたところで止めを刺された。

 現在もその乱闘を物語る刀傷や、芹沢の命取りとなった手習い机が邸内に残っている。公開されている座敷に端座して耳を凝らしていると、隊士らの起居する喧騒が聞えるような気がするのはわたしだけであろうか。

▲八木邸の説明版。

----備考----
訪問年月日 2005年1月5日
主要参考資料 「燃えよ剣」他

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