高山城
(こうやまじょう)

国指定史跡

鹿児島県肝属郡肝付町新富


▲高山城は当地に栄えた肝付氏の本城である。戦国期には
大隅国のほとんどを手中に収め、島津氏と拮抗する勢力を誇った。
(写真・高山城本丸跡。)

大隅に興亡した肝付氏の本城

 高山城は肝付城とも呼ばれるように大隅国最大の土豪肝付氏歴代の居城である。高山城の西北3.6km(肝付町前田)には肝付氏歴代の墓がある盛光寺跡が整備されている。そこに立てられた説明板の肝付氏略系図によると肝付氏を名乗ったのは兼俊となっている。兼俊の兄弟は周辺地域に分封されて萩原、安楽、和泉、梅北を名乗った。初代兼俊がいつ頃の人物であったのか知りたいところであるがよく分からないらしい。同略系図には初代兼俊の父兼貞は長元九年(1036)肝付郡弁済使であったと記されている。弁済使というのは国司や受領が私的に置いた役職とされ、貢物の収納・管理に当たっていたという。実質的な現地支配者といってよいだろう。時代は平安時代ではあるが後期に入っており、兼俊が当主であったと思われる11世紀後半には前九年・後三年の役などが起きており、武士の台頭期にさしかかっていた。

 二代兼経から七代兼尚までは鎌倉時代となる。この間、大隅国は執権北条氏やその一門が守護となり、肝付氏との所領を巡って訴訟問題にまで発展している。

 鎌倉末期の元弘二年(1332)肝付氏八代兼重は大塔宮の令旨を受けて挙兵、南朝方に付いて日向国高城に拠るなどして活躍したが足利方の畠山氏や島津氏との抗争が激しくなり、北朝方優勢となると本拠地高山城に戻って守勢に転じた。

 九代秋兼から十三代兼連までは島津氏に属して平穏な月日が流れたが十四代兼久の代になると守護島津氏と一族衆や国衆の対立や離反が常態化となり、国内は乱れて戦国の様相が色濃くなっていた。兼久も家督継承時には志布志の新納(にいろ)氏の支援を受けるなどして島津氏とは微妙な関係になっていた。

 永正三年(1506)、島津氏十一代忠昌が肝付氏討伐に乗り出した。自ら高山城の北側丘陵部に本陣を構えて陣頭指揮で臨んだ。現在は柳井谷の陣跡として史跡となっている。両軍の放つ矢が空中でぶつかり、大量の折れた矢が谷間に散乱したと伝えられている。戦いは八月六日から二ヵ月続いた。高山城の肝付勢の奮戦もさることながら志布志から後詰に駆け付けた新納近江守忠武の来援は肝付勢の反撃に火を付けたに違いない。十月十二日に至り、島津忠昌は高山城を落とすことができずに陣を引き払った。

 島津忠昌は武将というより文人肌の当主であったようで、打ち続く内乱を苦に自刃したという。その後も島津氏は内乱や重臣らの策謀によって短期間に代替わりが続き、弱体化が著しかった。

 一方の肝付氏はそうした島津氏の弱体化を機に兼久の後の十五代兼興は大永四年(1524)に串良の鶴亀城を、享禄三年(1530)には鹿屋城を支配下に置いた。

 天文二年(1533)、兼興の死によって十六代当主となった兼続は島津氏との抗争ではなく関係の親密化に取り組んだ。島津氏中興の祖と言われる島津忠良の娘阿南の方を正室に迎え、自身の妹を忠良の息貴久(十五代)に嫁がせた。兼続はこの間に大隅の大半を手中に収め、戦国大名化の道を歩む。当然、島津氏との衝突も避けられない状況となり、永禄四年(1561)にはついに武力衝突に至ってしまった。

 その後、島津氏との抗争は一進一退を繰り返したが永禄九年(1566)に至り、高山城は島津勢の攻撃を受けて落城してしまう。十七代当主となっていた良兼は城を脱してなおも抵抗をつづけたようだ。この時、廻城(霧島市)に居た兼続は高山城に戻ろうとしたが落城を知って自刃したと伝えられている。

 元亀二年(1571)、良兼も島津勢との戦いの渦中で没した。弟兼亮が家督を継いで島津氏との戦いに臨んだが、敗戦や味方の離反によって天正二年(1574)に至り、島津氏に降伏することになった。降伏後も兼亮は日向の伊藤氏と通じるなどしていたため、兼続未亡人の阿南の方は兼亮を追放してその弟の兼護を当主とした。

 天正五年(1577)、十六代島津義久の日向攻めに兼護も従軍したが、消極的な態度から内通を疑われたという。そのため汚名挽回のために伊藤氏との戦いに臨んだものの敗退を喫し、島津以久らの救援によって助けられている。戦後、肝付氏は高山城の所領のみとされた。

 天正八年(1580)、兼護は薩摩国阿多(南さつま市)に僅かな所領を与えられて移された。以後は島津家臣団の一人として仕え、兼護は慶長五年(1600)の関ケ原の戦いで戦死、後を継いだ兼幸も五年後に事故死して肝付本家の血は絶えた。

 平安末期から鎌倉、南北朝、室町、戦国時代と続いた肝付氏も兼続の全盛を一期として島津氏との抗争に敗れ、潰えてしまった。五百年ほど肝付氏を支え続けた高山城は肝付氏の阿多移転によって廃城となり、現在に至っている。


▲本丸に残る土塁跡。

▲高山城址碑。碑の背後の山が城址である。

▲肝付氏歴代の墓。高山城からは離れており、肝付町役場近くにある。

▲同署に掲げられた説明板の肝付氏略系図。

▲肝付氏歴代の墓から南へ約5kmほどの所に本城小学校跡の石碑の建つ広場がある。

▲ここに車を置いて城跡へと向かう。

▲広場に立つ城跡図の説明板。

▲広場から畑の畔を進む。馬乗馬場の案内板が立っている。

▲ここから城跡の森へと向かう。

▲大手口の案内板。

▲登城路。急峻な山城ではないので比較的楽に登城できる。

▲大来目神社。この奥が球麻屋敷と呼ばれる曲輪である。

▲説明板。築城に際して城の鎮神(しずめがみ)として創建されたとある。

▲大手門跡。右の斜面上は二の丸、左の斜面上は山伏城と呼ばれ曲輪である。

▲山伏城の東側堀切。

▲枡形跡から本丸へ。

▲本丸跡。周囲には土塁が廻っている。

----備考----
訪問年月日 2017年9月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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