飫肥城
(おびじょう)

市指定史跡・百名城

宮崎県日南市飫肥10-1


▲飫肥城は戦国期に島津氏によって城郭機能が強化されたものと見られる。その後、
伊藤氏の南進によって争奪の渦中に置かれ、百年に渡る争いが続いたことで知られる。
(写真・旧本丸の枡形虎口。)

百年戦争の果てに

 日向国で最初に在地勢力として栄えたのは土持氏であった。宇佐八幡宮の荘園領主としてやがて武士化していったものと思われている。鎌倉期には伊藤氏が日向中部に地頭として勢力を扶植し、南北朝期には両者共に武家方としてさらに勢力を拡大している。

 弱小勢力が淘汰されると、伊藤・土持両者が直接せめぎ合うことになってゆく。康正二年(1456)、都於郡(とのこおり)城を本拠とする伊藤祐堯は財部城の土持氏の攻略に踏み切り、勝利した。以後、土持氏は日向北部に逼塞することになる。

 こうした伊藤氏の版図拡大に対して日向南部に勢力を持つ島津氏も警戒の動きを見せている。長禄二年(1458)、島津立久(十代当主)は伊藤氏への押さえとして一族の新納(にいろ)忠続を志布志城から飫肥城へ配した。飫肥城の創築は南北朝の頃とも、また土持氏による築城とも言われているが確かなことは分からない。飫肥城が伊藤氏の進出を警戒する島津氏によって改築され城としての機能が強化されたことは確かであろう。

 文明十六年(1484)、串間城主島津(伊作)久逸、新納氏と仲違いして都於郡城主伊藤祐堯に援助を求む。伊藤祐堯、子の祐国(佐土原城主)、祐邑(清武城主)ら約一万六千の軍勢で飫肥城を攻め、一ヶ月の攻防の後引き上げる。

 文明十七年(1485)、伊藤祐堯、伊作久逸と共に飫肥城の新納忠続を攻める。伊藤祐堯、陣中(清武城)に病没。後嗣祐国が総大将として飫肥城外に布陣したが島津忠昌(十一代当主)自ら率いる救援軍との一戦に敗れて討死してしまった。これにより伊藤勢は総崩れ、島津久逸は降伏して伊作に引退した。島津忠昌は飫肥城の新納忠続も志布志城に戻し、島津(豊洲)忠廉を新たに飫肥城主とした。

 伊藤氏と島津氏の飫肥城争奪の緒戦は島津氏が伊藤氏の飫肥侵攻を食止めた形で終わった。当主を失った伊東家ではその後内紛を制した祐国の嫡男尹祐が島津氏の内訌に乗じて兵を進め、明応四年(1495)には三俣院(都城市)千町を割譲させることで和睦に応じている。その後も伊藤氏は都城方面への進出を続け、尹祐はその陣中に没した。

 伊藤家では当主の交代と内紛が続き、天文五年(1536)に至り義祐が当主となると再び飫肥進出に積極的となる。一方の島津氏は幕府の仲介を申し出るなどして伊藤氏の飫肥進攻に苦慮したようだが、義祐の飫肥に対する執着は強まるばかりであったようだ。天文十年(1541)から永禄十一年(1568)にかけて伊藤義祐の飫肥進攻は八回に及び、この年一月には二万余の大軍を率いて飫肥城を囲んだ。

 この当時の飫肥城主は島津忠廉の後、忠朝・忠広と続き忠親の代(豊洲家五代当主)となっていた。忠親はこれまでにも幾度となく伊藤勢との争奪戦を繰り返し、飫肥城を守り続けている。武器の備えは充分であったが兵糧の蓄えが乏しかったと言われている。忠親は島津宗家が薩摩・大隅の平定に忙しく、援軍は期待できないとして実子でもある北郷時久(都之城主)に援軍を要請した。

 北郷時久は手勢六千を率いて飫肥城の西約5kmの酒谷城に着陣した。二月に入ると時久は飫肥城へ兵糧を運び入れるための一隊を前進させたが伊藤勢に包囲殲滅させられて失敗した。その後、膠着状態が続き、六月に至り島津義久(十六代当主)は飫肥城の島津忠親を救うために城の明け渡しを決断した。忠親は都城へ退去し、飫肥城には伊藤義祐の三男祐兵(すけたけ)が城主として入った。

 伊藤義祐は念願の飫肥城を手中に収め、伊藤氏の最盛期を築いたが、元亀三年(1572)の木崎原(えびの市)の一戦で寡兵の島津義弘の軍勢に大敗を喫してしまう。天正四年(1576)になると島津氏の反攻が始まり、伊藤氏配下の降伏や寝返りが相次いだ。

 天正五年(1577)、飫肥城の伊藤祐兵は島津勢による包囲を突破して父義祐の居城佐土原城へ入った。しかし時すでに遅く、島津氏の日向進攻の勢いを止める力は伊藤氏になく、ついに義祐は日向を離れることを決心した。落ち行く先は豊後の大友宗麟であった。宗麟は翌年(1578)、大軍を率いて日向に出兵したが耳川の戦いに大敗してしまう。義祐と祐兵らは豊後から伊予河野氏を頼り、さらに天正十年(1582)には播磨に移って祐兵が羽柴秀吉に仕官する。

 天正十五年(1587)、伊藤祐兵は豊臣秀吉の九州平定の先導役を果たし、翌年には三万六千石の大名として飫肥城に返り咲いた。関ケ原時には東軍に付いたことで所領は安堵され、以後飫肥藩五万石として十四代続き、明治に至るのである。

 文明十六年(1484)の伊藤祐堯の飫肥進攻から天正十六年(1588)の伊藤祐兵の飫肥入城まで実に百年余に渡り島津氏との争奪が繰り返されたことになる。最終的には飫肥城は伊藤氏のものとなったが、本拠地であった佐土原城は江戸期を通して島津氏のものとなっている。


▲大手門。昭和53年(1978)に国内に現存する大手門を参考にして建設された。

▲大手口の枡形。

▲飫肥城観光駐車場の出入り口。

▲大手門前の閑静な通り。

▲大手門。

▲大手門前の城址碑。

▲大手口の堀。

▲大手門をくぐるとこの枡形。

▲大手枡形と武者隠し(左)。

▲大手枡形の正面に立ちはだかる城壁。

▲本丸への虎口。

▲本丸への石段。

▲昭和53年(1978)に開館した「飫肥城歴史資料館」。

▲松尾の丸への石段。

▲昭和54年(1979)に松尾の丸へ建てられた書院造りの御殿。二条城などを参考にしたという。

▲旧本丸への石段。

▲旧本丸の枡形虎口。

▲飫肥杉林となった旧本丸跡。

▲本丸北虎口門(復元)。

▲本丸跡。現在は飫肥小学校となっている。貞享元年(1684)の大地震による修築で本丸はこちらに移され、近世城郭化が図られた。

▲資料館裏の虎口。

▲資料館裏の虎口には4本の杉がある。その対角線の中心に立つと幸せパワーがもらえるとのこと。「しあわせ杉」と名付けられている。

▲大手門前の「小村記念館」。日英同盟やポーツマス条約の締結に活躍した明治期の外交官小村寿太郎は飫肥の出身である。


----備考----
訪問年月日 2018年7月29日
主要参考資料 「城下町飫肥ガイド」
「日向国山東河南の攻防」・他

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