新城古城
(しんしろこじょう)

                   新城市石田          


▲ 城址に建つ「新城古城跡」の標柱。付近は宅地化して遺構は見られない。

石田合戦

 新城古城は天正四年(1576)に奥平信昌が築いた新城城と区別するための呼称である。本来は石田の新城と呼ばれ、天文元年(1532)に菅沼定継によって築かれたものである。
 定継ははじめ大谷城(新城市上平井)に居たが、要害の地を求めたのであろうか、ここ豊川沿いに新城を構えたのである。その後、定継は菅沼氏の本城である田峯城に入って織田氏に付き、今川氏に反旗を翻した。菅沼一族が二つに分かれて戦うことになったこの戦いは布里合戦(布里城)によって織田方の定継らが敗死して終わった。
 戦後、この城には定継の弟で今川方に付いた定氏が入った。
 永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれ、松平元康(徳川家康)が三河に独立した。三河の諸氏は今川を離れ、こぞって元康に臣従するようになった。
 永禄四年、こうした事態を食い止めようと今川義元の後を継いだ氏真は吉田城の小原鎮実に野田城の菅沼定盈を攻めさせ、その城を奪ってしまった。
 永禄五年、城を追われた定盈は野田城を奪還すべく、手薄となった頃合をみて奇襲攻撃をかけた。定盈らは今川勢を駆逐して城の奪還に成功したのであった。
 一方の野田城を追われた今川勢は、おめおめと引き揚げるのも癪だとばかりに、ここ石田の新城に押し掛けたのである。小城のひとつくらいは血祭りに上げて面目を保とうというわけである。
 城主の菅沼定氏はこの近くに砦を構えている同族の菅沼定勝(島田菅沼/先の田内城主)の応援を得て今川勢の来襲に備えていた。
 定氏と定勝は今川方の物見が石田の伝寿山に現れたのを見て、今川勢の進路を予測した。定勝らは先手を打ってこの山に進出、兵を伏せて今川勢の近づくのを待った。そして何も知らずにやってきた今川勢に奇襲をかけた。
 この戦闘で定勝は敵将の鈴木甚平、松井兵右衛門を討取った。さらに城を打って出た定氏らも善戦して稲垣十郎左衛門、倉川弥太郎らを討取って今川勢を撃退してしまった。
 これが石田合戦と呼ばれるものである。一説には永禄四年に今川勢が野田城を奪った祭に起きた戦いであったとも云われている。
 この後、定氏は杉山端城に移り、元亀元年(1570)には道目記城を築いて居城とした。定氏の子孫は、江戸期には旗本として代々続いた。
 ▲ 城址を示す標柱の周辺。
▲ 「狐塚」。石田合戦で討死した今川方の稲垣十郎左衛門は石田の黒坂という所に葬られたという。その後、この塚に狐が棲みつき「化身の妙を得たる老狐」ということで有名になった。その狐の死後、村人はその塚に祠を建てて祀ったと云われている。塚の場所は城址の北200bほどのところにある。
----備考----
画像の撮影時期*2008/02及び2008/04

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