道目記城
(どうめきじょう)

                   新城市杉山           


▲ 現在は本丸西側に残る土塁上に稲荷社が建っている。千郷中学校の西側に隣接している。

信玄、野田城攻めの本営とす

 道目記城(又は度々目記城)は菅沼十郎兵衛定氏の築城と伝えられている。
 それ以前、ここには塩瀬氏が屋敷を構えていた。塩瀬氏は鎌倉期(弘安七年/1284)に近江国甲賀郡塩瀬里より来住、当地を開発したとされている。その後室町初期に設楽郡を支配した富永氏(野田館)の臣下となり、保司(郡司、郷司に次ぐ役職)として当地を領した。初代資時から六代続き、文安二年(1445)に保司を免ぜられてここを退去した(「千郷村史」)といわれる。定氏による築城はそれから125年後のことということになる。
 定氏は田峯菅沼氏の三代目定広の四男である。菅沼氏はこの定広の代に大きく勢力を伸張した。定広の五人の息子たちは豊川沿いにそれぞれ城を与えられて独立した。四男であった定氏は大野城(新城市大野)に拠った。
 弘治二年(1556)に長兄の定継が布里合戦(布里城)で滅んだ。合戦後、定氏は定継の持城であった新城古城(石田新城)に移り、続いて杉山端城を築いて居を構えた。
 それから十数年後、今川氏が滅び、戦国の様相が大きく変わろうとする頃、定氏はこの道目記城を築いたのである。それが元亀元年(1570)のこととされている。
 この翌年、奥三河に侵入した武田軍に田峯と長篠の菅沼氏が降った。しかし定氏は野田城の菅沼定盈とともに徳川方に残った。
 この年、田峯城にありながら徳川に心を寄せる重臣菅沼定直の子定利(出自については諸説あって定かでない)が田峯を逃れて道目記城に入っている。
 翌元亀三年(1572)、武田信玄率いる大軍が遠江に進攻、三方原合戦浜松城の徳川家康を打ち破った。
 この合戦には定氏、定吉父子も家康に属して参戦している。十二月二十二日の敗戦の夜、大久保忠世ら百余人による犀ヶ崖の夜襲が決行され、武田勢に多くの損害を与えた。定氏はこの夜襲にも加わっており、家康から賞として長谷部国重の脇指を与えられている。
 さて、三方原で家康を敗走させた信玄は三河に進み、野田城を囲んだ。その際に信玄はここ道目記城に入り、本営とした。元亀四年(1573)正月七日のことである。
 この時期、定氏、定利らは家康に従って行動しており、道目記城は空城となっていたと思われる。あるいは、武田に降った田峯宗家の菅沼定忠が兵を出してその支配下に置いていたとも推測できる。
 二月十日、野田城、開城。信玄はここ道目記城で菅沼定盈に対面し、賞賛の言葉をかけたと云われている。
 この後、信玄は長篠城に移った。そして四月十二日、帰国の途中駒場にて五十三歳の生涯を終えた。
 道目記城の名はその後、歴史に出てこなくなった。
 ちなみに菅沼定氏の子定吉は徳川家旗本として関東に三千五百石を賜わり、その子孫は代々幕府に仕えた。定吉は浄空院(埼玉県東松山市上唐子)を建立して歴代の菩提寺とした。
 元亀二年に道目記城に入った定利も一貫して家康に仕え続け、天正十年(1582)に武田に従っていた田峯宗家の滅亡によりその遺跡を引き継いだ。天正十八年(1590)、家康の関東移封により上野国吉井城二万石の大名となった。
 道目記城のその後であるが、天正十年に定利が宗家を継いで信州飯田城に移った際に家臣の花房左衛門八郎が城代となったそうである。その花房氏も天正十八年に飯田に移り、他の家士も関東に移るなどして自然に廃城となった。
 定氏の家臣であった今村藤左衛門と石田惣右衛門らは当地に残り、帰農してその後も土地を守り続けた。

▲ 千郷中学校南側の道路沿いに建てられた「道目記城址」の標柱。野田城はここから南西約1.8`にある。
----備考----
画像の撮影時期*2008/02
本文追加*2008/09

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