「新田義貞の臣に、高田薩摩守という豪傑がおり、その二男又次郎政季がここに居を構えた」と現地説明板にある。
高田薩摩守義遠は新田義貞の臣で新田十六騎党のひとりに数えられた豪勇の武者であったようだ。彼は建武三年(1336)正月の京都における合戦で討死している。その二男である政季がどのような経緯で当地に居住したのかは分らないが、彼はその後に竹本と氏を改めたとされる。
その後、竹本氏は代を重ねて戦国期に至り、天文の頃(1532-55)には牛久保城主牧野保成の支配下にあり、地域の土豪として近隣の岩瀬氏らと共にその幕下にあったようだ。当時の当主を竹本四郎左衛門成久という。
この当時牛久保の牧野氏は今川氏に属して東三河の旗頭的存在であった。永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が敗死した後も今川方であり続けている。三河の諸氏が今川を見限って松平家康(徳川家康)のもとへ参じつつあった状況下でも竹本成久は今川方に留まり続ける牧野氏のもとにあった。しかし、永禄六年(1563)に至り、ついに牧野氏も家康の軍門に降ることなり、竹本氏もこれに従った。「三河国宝飯郡広石村誌」には「竹本氏ノ長男ハ徳川家康公ニ奉仕シテ、関東ニ行キ」とあってその他の一類は当地周辺に散在して帰農・土着したと言われている。
武士としての立身よりも先祖の地を愛し守り続ける道を選んだといえる。
天正年間(1573-92)、当地は長沢松平氏(長沢城)の領するところとなり、その家臣山田長門守晴政が竹本城主となった。
家康の関東移封によって長沢松平も三河を去って関東へ移った。その後、長沢松平氏は家康六男の忠輝が相続し、最終的には越後高田七十五万石(高田城)の大々名となり、山田氏も糸魚川城主となって二万石を領した。しかし、元和二年(1616)に忠輝改易となり自害してしまい、山田長門守も子因幡守と共に殉死したと言われる。
竹本城が最終的に整備されたのは山田氏時代のことと思われるが、その山田氏が関東に移ったことによって廃されたものと思われる。
|