金谷城
(かなやじょう)

              豊田市金谷町1丁目     


▲ 金谷城は鎌倉時代以来、当地の地頭中条氏の居城であった。中条氏は剣法
中条流で知られるが、過酷な戦国期を領主として生き残ることはできなかった。
(写真・勝手神社境内に建てられた城址碑。)

剣豪中条氏の古城

 金谷城主であった中条(ちゅうじょう)氏は鎌倉幕府御家人の中条成尋の子家長が武蔵国中條(埼玉県熊谷市)を領したことに始まる。家長は承久の乱(1221)後、三河国高橋庄の地頭に補せられたが現地支配は以前からの地頭代であった高橋氏に任せられていた。実際に任地に下向したのは家長から数代を経た景長の時であった。鎌倉末期の延慶年間(1308-11)のことである。それまでの中条氏は尾張守護、幕府評定衆を務め、幕府内に重きを成した。
 高橋庄を拠点とするようになった景長は足利氏に仕え、三河や尾張の南朝勢力と戦った。建武二年(1335)、新田義貞の軍と矢作川に戦って負傷、弟秀長が後を継いだ。
 秀長は足利義詮、義満に仕え、評定衆をつとめるなどして中条家の興隆に尽くした。
 秀長の後、景長の嫡男長秀が家督を継承して秀長同様に足利将軍に仕えた。長秀は剣豪としても知られ、家伝の中条流剣法を昇華させ、後の一刀流や冨田流の基となった。長秀はまた将軍義満の剣術師範であったとも言われる。後年、宮本武蔵と決闘した佐々木小次郎は中条流の使い手であったという。
 長秀の後、数代を経た永享四年(1432)九月、当主詮秀が将軍義教の怒りに触れ、所領役職没収のうえ自刃を命じられるという事態が起きた。
 この勘気は永享十二年(1440)に解け、中条氏は再興されて幕府奉公衆にその名を連ねている。
 しかし、応仁の乱(1467)後、幕府の権威は失墜し、世は下剋上の時代へと移り、地方では土豪らの自立台頭による争いが激しくなった。
 明応二年(1493)秋、中条秀章は高橋庄防衛のために松平氏攻撃を企画し、麾下の土豪三宅、鈴木、那須ら三千余を率いて出陣、安城城の松平親忠と井田野(岡崎市)に戦った。しかし、劣勢の松平勢千五百の前に惨敗を喫してしまった。
 井田野の敗戦によって中条氏の庄内における権威は失墜し、被官であった伊保の三宅氏や寺部の鈴木氏は自立の道を歩み始めるようになった。
 天文元年(1532)、常隆が当主となったが翌年には松平清康との戦いに敗れ、天文十八年(1549)には今川氏の勢力となった東条衆に領内を荒らされ、永禄元年(1558)には松平元康に攻められるなどして中条氏は金谷城とその周辺部を維持するだけの状態にまで衰退してしまった。

 永禄四年(1561)、織田信長の軍勢(佐久間信盛)に押し寄せられた常隆は一戦も交えることなく開城して御立村(豊田市御立町)の家臣森豊後守の屋敷に退転した。ここに鎌倉以来続いた中条氏は滅亡したことになる。
 その後は佐久間信盛が城主となり、永禄十一年(1568)には余語久三郎正勝が城代をつとめ、寺部城とともに守ったがほどなくして徳川氏の支配下に置かれたものと思われる。
 天正十八年(1590)からは岡崎城主となった田中吉政の支配下となったが、慶長六年(1601)には再び徳川氏のものとなり、同九年(1604)三宅康貞が一万石で入部した。
 三宅氏は元々中条氏の被官であったが徳川家康に臣従して武功を重ね、故郷に藩主として返り咲いた形となったのである。しかし、藩庁とすべき金谷城は打ち続いた戦乱で荒れ果てていた。三宅康貞は金谷城を廃して北1kmほどの地に左久良城(桜城)を築いて陣屋としたのであった。


▲V郭西側の空堀。
▲城址碑の建てられている勝手神社。中条氏が文永五年(1268)に守神として建立したとされる。
▲堀切に向かう切通し。

▲T郭とV郭を画する堀切。短い鉄橋は名鉄三河線である。
----備考----
訪問年月日 2013年12月15日
主要参考資料 「豊田の史跡と文化財」他

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