(かなやじょう)
▲ 金谷城は鎌倉時代以来、当地の地頭中条氏の居城であった。中条氏は剣法
中条流で知られるが、過酷な戦国期を領主として生き残ることはできなかった。
(写真・勝手神社境内に建てられた城址碑。)
剣豪中条氏の古城
金谷城主であった中条(ちゅうじょう)氏は鎌倉幕府御家人の中条成尋の子家長が武蔵国中條(埼玉県熊谷市)を領したことに始まる。家長は承久の乱(1221)後、三河国高橋庄の地頭に補せられたが現地支配は以前からの地頭代であった高橋氏に任せられていた。実際に任地に下向したのは家長から数代を経た景長の時であった。鎌倉末期の延慶年間(1308-11)のことである。それまでの中条氏は尾張守護、幕府評定衆を務め、幕府内に重きを成した。 |
永禄四年(1561)、織田信長の軍勢(佐久間信盛)に押し寄せられた常隆は一戦も交えることなく開城して御立村(豊田市御立町)の家臣森豊後守の屋敷に退転した。ここに鎌倉以来続いた中条氏は滅亡したことになる。 |
▲V郭西側の空堀。 |
▲城址碑の建てられている勝手神社。中条氏が文永五年(1268)に守神として建立したとされる。 | ▲堀切に向かう切通し。 |
▲T郭とV郭を画する堀切。短い鉄橋は名鉄三河線である。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2013年12月15日 |
主要参考資料 | 「豊田の史跡と文化財」他 |