岩井陣屋
(いわいじんや)

               磐田市岩井     


▲岩井陣屋は旗本鍋島氏五千石の陣屋跡である。
(写真・陣屋跡の標柱と土塁跡)

旗本鍋島氏の陣屋

磐田原台地東端の三ヶ野台から北1kmほどの所に岩井の集落がある。陣屋跡はこの西側丘陵地に構えられた。時期は安政二年(1855)というから幕末動乱のときである。安政年間(1854〜60)には安政の大獄や桜田門外の変などが起きている。

陣屋の主は旗本の鍋島内匠守直孝で五千石である。天保十四年(1843)江戸町奉行、嘉永元年(1848)大番頭を歴任している。また朝顔の栽培でも有名であるらしい。地元では鍋島公陣屋跡と呼んでいる。

鍋島氏は肥前佐賀藩主家が本家である。直孝は佐賀藩九代藩主斉直(なりなお)の五男であったが十代藩主直正(閑叟/かんそう)の養子となって餅ノ木鍋島家(旗本)を継ぎ、十代当主となって岩井に陣屋を構えたのだという。

餅ノ木鍋島家の成立について。初代は肥前鹿島藩(鹿島城)二代藩主鍋島正茂である。鹿島藩は本藩である佐賀藩の支藩である。支藩に対する本藩の態度は高圧的で佐賀藩主鍋島勝茂は正茂に対して自身の子を養子とするように強要して認めさせた。さらには隠居まで要求してきたのである。他にも位階叙任を阻むなどの嫌がらせが続いたという。寛永十九年(1642)、勝茂の仕打ちに耐えかねた正茂は鹿島藩主の地位を捨て、本家と義絶、幕府旗本となって江戸を去った。下総矢作に五千石を賜り、代を重ねた。この正茂の家系を餅ノ木鍋島家という。

元禄十一年(1698)四代長行のときに遠江・三河へ移封となる。その後も代を重ね、安政二年(1855)に至り、直孝が岩井に陣屋を構えたのだという。その間の詳細は分からない。

直孝は万延元年(1860)に没し、子の直影が継いだらしいが大政奉還を機に引き揚げたという。現地説明板には大政奉還を明治三年(1870)としているが、慶応三年(1867)の誤りではないだろうか。

現在、陣屋跡地には平場や土塁の跡が見られるが、戦時中に陸軍の砲陣が敷設されたと説明板にあり、どこまでが陣屋の遺構であるかは分からない。


▲陣屋跡の土塁跡。

▲ハイキングコース入口に立てられた陣屋跡の説明板。

▲ハイキングコース入口。ここから陣屋跡まで約4分。

▲陣屋跡の標柱。

▲周辺には土塁痕がみられる。
----備考---- 
訪問年月日 2022年10月20日 
 主要参考資料 現地説明板・他

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