加賀爪屋敷
(かがづめやしき)

               磐田市笠梅        


▲加賀爪屋敷は加賀爪直澄が掛塚藩を立藩した際に構えられたとされる。
(写真・移築された屋敷の長屋門)

旗本加賀爪氏の屋敷

加賀爪氏は本来今川氏の家臣で遠江国山名郡新池郷(袋井市新池)を領知していた(加賀爪氏館)。始祖修理亮政定は八条上杉満定の子で駿河守護今川範政の猶子となり、弱年より駿河に居住し、上杉を改めて加賀爪を称した。

その後、忠定、政泰、泰定、政豊と続いた。五代政豊のとき、今川義元が桶狭間に斃れ、後を継いだ氏真も武田信玄に駿府を追われて掛川城に逃げ込み、滅亡の危機に瀕した。政豊は氏真を見限り、徳川家康に従って掛川城攻めに加わった。戦後、家康より所領を安堵された。天正十八年(1590)、家康の関東入国に従う。

六代政尚は武蔵国比企、相模国高座両郡の内三千石を拝領した。七代忠澄は大坂の陣などで活躍、最終的に九千五百石を知行した。

八代直澄は二千石を給され、寛永十八年(1641)家督継承により一万石の大名となった。この時に弟信澄が遠江国豊田郡の内千石を分知されて旗本に列した。

直澄は一万石の内遠江国に六千五百石を領知しており掛塚藩を立藩して大海村(磐田市笠梅)に屋敷(陣屋)を構えたとされる。延宝七年(1679)、養子直清に家督を譲る。しかし、天和元年(1681)に所領境界問題が起き、直澄の落ち度とされて所領没収改易となってしまった。

かろうじて直澄の弟信澄が大海村の一部を知行しており、この系統が幕末に至ったという。

現在、屋敷跡は土地改変が進み、何もない。移築された屋敷門が近くに残るのみである。


▲屋敷門の説明板。加賀爪甲斐守とは大名となった直澄のことである。

▲かつて屋敷跡の標柱と説明板が立っていた付近。土地改変により撤去されたようだ。
----備考---- 
訪問年月日 2022年11月5日 
 主要参考資料 「寛政重修諸家譜」他

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