蜷原砦
(になはらとりで)

             浜松市天竜区二俣町二俣       


▲ 蜷原砦は天正三年(1575)に二俣城に続く台地上に築かれた徳川方付城群の
ひとつである。これは二俣城側から見た蜷原砦方面の景観である。中央の電柱
付近が最も細い尾根となっており、当時は深い堀切が設けられていたと思われる。

二俣城奪還、北の砦

 蜷原砦は天正三年(1575)六月、長篠合戦(設楽原古戦場)で武田勝頼に大打撃を与えた徳川家康が北遠の要衝二俣城の奪還のために鳥羽山城毘沙門堂砦和田ヶ島砦とともに築いた付城群のひとつである。
 他の付城群が天竜川と二俣川(当時の流路は現在と異なる)を介した対岸に築かれたのに対し、蜷原砦は二俣城の尾根続きの台地上に築かれている。つまり地続きで武田方となっている二俣城と直接対峙していたのである。
 この砦に布陣したのは大久保忠佐であった。城攻めの本陣となった鳥羽山城を任された大久保忠世の弟である。
 二俣城との対陣は半年の長きに渡るが、この間に慰労のための能がこの砦で催されたと言われている。対陣の後半であろうか、大久保忠世も蜷原砦に陣したようである。
 十二月二十三日、援軍の望みを絶たれ、兵糧も尽き果てた二俣城将の依田信蕃は大久保忠世に和を請うた。家康も籠城の武勇を称えて開城退去を認めた。翌二十四日、依田信蕃以下の城兵たちは城内を清掃して退去、高天神城に向かった。
 依田信蕃以下の籠城兵は退去の際にこの砦を通過して行ったはずであり、その姿は粛々として見苦しいものではなかったという。後に家康は依田信蕃の統率力を見込み、請うて家臣に迎えたほどである。
 砦跡の現況は宅地化が進み、遺構といえるものは見当たらない。城館資料には天竜川に面して段状遺構がのこるとあるが、こちらも農地や宅地化が進んでそれらしきものも見られない。台地の北端が最も高所となっており、ここに北曲輪の土塁の痕跡が残ると言われている。

▲ 二俣城址から続く道は天竜川に沿って台地の西側を抜けている。

▲ 台地北端部。ここから急な下り坂となっている。

▲ 天竜川に面した段状遺構か。よく分りませんけど。
----備考---- 
訪問年月日 2011年11月13日 
 主要参考資料 「浜松城時代の徳川家康の研究」他

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