毘沙門堂砦
(びしゃもんどうとりで)

             浜松市天竜区二俣町二俣     


▲ 毘沙門堂砦は二俣城攻略のために徳川家康によって築かれた付城群の
ひとつである。本多忠勝が布陣した砦として知られている。現在は浅くなった
堀切跡(上写真)やわずかな土塁の跡、削平された主郭や腰曲輪の跡が残っている。

毘沙門天の砦

 村の守り神である毘沙門天に手を合わせた後、本多平八郎忠勝は普請の成った砦に陣取った。この毘沙門天を祀った御堂があったことから後にこの砦を毘沙門堂砦と呼ぶようになる。
 天正三年(1575)五月、徳川家康は織田信長と共に長篠合戦(設楽原古戦場)で武田勝頼に大勝した。家康はこの勝利を機に翌六月には早くも武田方に奪われていた二俣城の奪回に取り掛かったのである。
 二俣城は家康が居城とする浜松城の北方約18kmの位置にあり、遠江における武田方の最前線拠点のひとつとなっていたのである。家康にとっては頭を押さえ込まれているようで、最も邪魔な存在となっていたのである。
 この二俣城攻めにあたり、家康は周辺に付城を築いて孤立させ、兵糧攻めの長期戦で臨んだ。付城は二俣城の南に鳥羽山城、西に和田ヶ島砦、北に蜷原砦、そして東に築かれたこの毘沙門堂砦である。
 この当時、本多平八郎忠勝は二十七歳、家康が最も信頼をおく青年武将である。戦場における槍働きは抜群で徳川勢きっての闘将でもある。元亀三年(1572)の一言坂の戦いでは武田信玄率いる武田勢に追われた際に殿軍を引き受けて奮戦、家康を無事浜松城に逃れさせている。この活躍を知った信玄が「家康には過ぎたるもの」と平八郎の働きを激賞したという。
 その平八郎忠勝の陣取ったこの砦の規模はさほどでもない。丘陵の先端部を一重の堀切で断ち切っただけのものであった。ただ、二俣城側の斜面には腰曲輪を設けている。山頂の本曲輪と腰曲輪に軍旗を林立させ、兵を配することで二俣城に対してさらなる威圧を加えるためである。
 二俣城の包囲は半年ほど続く。この間に平八郎忠勝は武田方の中継拠点となっている光明城を先鋒となって榊原康政とともに奪い取っている。
 十二月二十三日、兵糧尽き、援軍の望みを絶たれた武田方の二俣城主依田信蕃は和議開城に応じて退去した。二俣城は再び家康のものとなったのである。
 村人たちの目には、颯爽とした平八郎の姿が、甲冑を身に着けて悪魔を払う宝剣を持った村の守り神である毘沙門天と重なって見えていたに違いない。
 砦はその後放置されたまま歳月だけが通り過ぎていったようだ。おかげで堀切や腰曲輪の跡を今でも目にすることができる。

▲ 砦の築かれた山の中腹から二俣城方面を展望。中央やや左側の丘陵上に二俣城がある。

▲ 砦の西側麓の栄林寺。ここが登城口となる。

▲ 砦の主郭北側の土塁と虎口の跡。

▲ 砦の主郭跡。

▲ 主郭の一画には鉄塔が建てられ、その周辺は立ち入り禁止の柵が回らされている。

▲ 砦西側斜面に設けられた腰曲輪跡。

▲ 砦の名の由来となった毘沙門堂。建徳元年(1370)の建立とされるから室町初期の頃である。明治年間に焼失して同四十二年(1909)に山上より現在地に再建された。
----備考---- 
訪問年月日 2011年9月15日 
 主要参考資料 「浜松城時代の徳川家康の研究」
 ↑ 「北遠の城2008」他 

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