妙恩寺
(みょうおんじ)

      浜松市東区天龍川町     


▲妙恩寺は日蓮聖人の孫弟子日像上人の開山で七百年以上の歴史を
刻む古刹である。戦国時代には徳川家康との交流があったことで知られる。
(写真・妙恩寺山門)

家康公入出の寺

東海道本線天竜川駅の北数分のところに日蓮宗の古刹妙恩寺がある。山門前には「當山草創六百年紀念」の大きな石碑が建っている。応長元年(1311)の開山であるからこの石碑は明治四十三年(1910)に建立されたものとなる。

応長年間(1311-12)は鎌倉時代の後期にあたる。後醍醐天皇の最初の倒幕計画であった正中の変が正中元年(1324)で、動乱の世紀の始まりとなった元弘の乱(1331/笠置城)がその七年後であるから世の中はいまだ北条執権体制のなかにあった時期といえる。

妙恩寺を開創した日像上人は宗祖日蓮聖人から京都の布教を託され、永仁二年(1294)頃から上洛して布教活動をはじめた。しかし延暦寺や東寺などの大寺による妨害が執拗に続けられ、強訴による京都追放の院宣が三度出されている。妙恩寺の開創は二度目の京都追放の時であったようだ。

京都追放となった日像上人はここ遠江国蒲庄の左近将監であった金原法橋治時の屋敷で妹の妙恩尼と再会した。金原法橋はもとは下総国千葉氏一族で金原郷(千葉県匝瑳市金原)の領主の出身で、鎌倉幕府の抜擢を受けて遠江国蒲の地の領主となったという。法橋自身は日蓮聖人の直接の門下である。三人が会したこの時に法橋の邸内において、日像上人を開山、妙恩尼を二世とする遠江最初の法華道場が建立された。

時代は下り戦国時代、妙恩寺十一世日豪上人のときである。永禄十一年(1568)十二月、徳川家康は遠江国へ進軍した。三河国から井伊谷へ入った徳川勢は引馬城攻めのために金指から南下して安間村(浜松市東区)に進出、そして橋羽(はしわ)の妙恩寺を本陣としたとされる。この時、日豪上人は山門を開き、本陣としての使用を快諾したという。日豪上人は武田家重臣の馬場美濃守の末子であったが「仏門に怨親の区別なし」として家康を迎え入れたのであった。

こんな話もある。三方原合戦(一言坂の戦いとも)で敗走する家康はここ妙恩寺に避難した。日豪上人は家康を天井裏に隠して難を逃れさせ、そしてお粥を差し入れた。家康はそれを平らげると碗と箸を寺紋(丸に二引き紋)とすることを許したという。

その後、日豪上人は囲碁の相手として家康のもとを往来した。慶長八年(1603)には寺領二十四万石が与えられた。

現在、妙恩寺境内には明治時代に天竜川の治水事業に私財を投じた金原明善翁の供養塔が建っている。明善翁は妙恩寺開基金原法橋の末裔である。


▲本堂。

▲「法橋の松」の後継移植樹。

▲清正堂。十二代住職日登上人が加藤清正の子という縁で建てられたという。江戸期には権現堂、東照宮と名を変えたが、明治以降に再び清正堂に名を戻したという。

▲金原明善翁の供養塔。



----備考---- 
訪問年月日 2023年7月6日 
 主要参考資料 「浜松の史跡」他

 トップページへ遠江国史跡一覧へ