龍潭寺
(りょうたんじ)

                   浜松市北区引佐町井伊谷        


▲ 本堂北庭として小堀遠州により築かれた池泉鑑賞式庭園。

井伊氏累代の
        菩提寺

 天平五年(733)、行基の開創による地蔵院(真言)が当寺の前身である。井伊氏との関係をもつようになったのは寛弘七年(1010)で、当時の和尚が井戸の脇に捨てられていた赤子を拾ったのがそのはじまりである。その赤子が長じて井伊氏初代となる共保なのである。

 その後井伊氏は戦国時代に至るまで井伊谷の地をまもり続け、国人領主として生き続けたのである。

 その間、南北朝時代には、井伊氏は遠江南朝の有力者として宗良親王を迎えて激しい戦いを続けている。元中二年(1385)、南朝興隆のために各地を転戦した宗良親王は七十四歳の生涯を終え、当地に葬られた。その法号「冷湛寺殿」にちなんで地蔵院は冷湛寺と改称したのであった。

 永正四年(1507)、十九代直氏が禅宗に帰依したことにより当寺は臨済宗の禅刹となった。

 戦国時代もたけなわの永禄三年(1560)、二十二代直盛は今川義元に従軍して不運にも桶狭間で討死してしまった。このとき、法号「龍潭寺殿」にちなんで寺名を現在の龍潭寺と改めたのである。

 この直盛の死は井伊氏の歴史のなかでも最も危機的な状況をむかえることにもなったのである。

 それは直盛に嗣子が無かったことと、それにともなう一族内の相続争いであった。その詳細は別項に譲るとして、ともかくも直政の登場によって井伊氏は再び興隆のときをむかえる(井伊城)。

 遠州入りした徳川家康によって井伊谷の地を安堵された直政は徳川四天王とまで称えられる働きをみせた。

 その後、井伊氏は彦根三十万石の大々名となり、約六百年まもり続けた先祖伝来の地を離れた(彦根城)。

 無論、龍潭寺はその後も井伊氏の厚い保護を受け続け、歴代の和尚によって伽藍の建立が続けられた。

 現在見られる龍潭寺の姿は、そのほとんどが江戸時代のものである。

 山門、本堂の建立をはじめとして元禄十五年(1702)には開山堂、享保十四年(1729)には遠州一の大仏釈迦如来像が、さらに寛保二年(1743)に井伊家霊屋が建立されている。

 この霊屋には井伊氏歴代千年の霊が祀られている。あの幕末の大老井伊直弼の位牌もここに安置されているのである。

 殊に本堂の北庭は有名で、大名茶人小堀遠江守正一の作である。通称小堀遠州と呼ばれた正一は「綺麗さび」という独自の茶道の創始者でもある。また建築、造園、陶芸にも秀でた才能を発揮している。

 いま本堂の縁側に座して庭を前にしていると、「綺麗さび」の心が伝わってくるのはわたしだけではないであろう。


明暦二年(1656)建造の山門。四脚門造りの総門である

▲「徳川四天王井伊直政公出生之地」碑。

▲延宝四年(1676)建立の本堂。

▲本堂の鶯張りの廊下。この奥が開山堂である。

▲龍潭寺庭園。
―備考―
訪問年月日 2004年8月22日
主要参考資料 現地パンフ、他

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