宗安寺
(そうあんじ)

      浜松市東区市野町     


▲宗安寺は室町末期の開創とされ、江戸初期の代官市野氏の菩提寺である。
(写真・宗安寺の山門)

家康に仕えた市野惣太夫

かつて市野町は姫街道の宿駅として栄えたという。戦国期には今川氏の軍勢が砦(市野砦)を築くなどして軍事的にも枢要な地でもあった。この町の北外れに曹洞宗万松山宗安寺があり、ここに市野氏歴代の墓地がある。市野氏はかつての市野村、笠井新田村、上石田村など近隣数ヶ村を支配した代官であった。

市野氏の出自については「寛政重修諸家譜」によれば近江国浅井氏の一族で同氏没落の後に遠江長上郡市野に住して地名を屋号としたとある。

また、同家譜には市野氏初代となった惣太夫実久は永禄十一年(1568)に徳川家康に仕え、馬の扱いに秀でていたようで、家康の命を受けて信濃、陸奥両国に赴いて馬を求めたという。慶長五年(1600)には伏見において御馬を預かり、御馬役を命ぜられた。同時に市野村十七石余を与えられて当地の代官を勤めた。ある日、家康が市野村に放鷹に訪れた際に「在名市野を称号とし、丸に一文字をもって家紋とすべし」と惣太夫実久に命じたという。元和二年(1616)没。

その後、実次、実利、真防(さねあき)と市野氏は四代続いて代官を勤めた。真防は元禄十年(1697)に職を辞して小普請となり、子の真則以降は江戸駒込の勝林寺を葬地とした。

元禄十年前後の年は遠江国内の代官の秋鹿氏(秋鹿屋敷)、平野氏(加茂砦)そして市野氏が相次いで代官の職を辞している。これら土地との結び付きの強い代官、いわゆる土豪代官が解任され、徴税強化のために官僚出身の代官がこれに替わった。土豪代官では正確な年貢徴収が行われなかったのであろうか。市野氏支配の村々はその後、中泉代官(中泉陣屋)の支配下に置かれた。

現在、宗安寺境内の墓地の一画には惣太夫実久以降の市野氏歴代の墓塔が四百年以上の風雨に耐え、苔むして建っている。


▲万松山宗安寺の山門。

▲山門前に立つ説明板。

▲立派な三重塔が建っている。平成11年(1999)、檀家の鈴木六郎氏の寄贈である。

▲市野氏墓塔群。左端の宝篋印塔が初代惣太夫実久でその右の笠付柱状碑は三代実利の墓とされる。



----備考---- 
訪問年月日 2023年9月26日 
 主要参考資料 「浜松の史跡続編」他

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