五箇篠山城
(ごかささやまじょう)

町指定史跡

            三重県多気郡多気町朝柄    


▲五箇篠山城は古くは五ヶ城と呼ばれており、土豪野呂氏の居城
とされている。北畠氏滅亡後、還俗した北畠具親と旧臣らがこの
城に再興の旗を上げ、最後の戦いに臨んだことが知られている。
(写真・土塁跡の残る主郭。)

北畠氏再興の夢、五ヶ古城に潰える

 鎌倉時代中頃に野呂氏隆が上野国より当地に移住して後、五箇篠山城は野呂氏代々の居城であったとするのが一般的であるが、確実ではないらしい。また、氏隆の孫の氏晴が南北朝期に築城したとも言われており、国司北畠氏に属して南朝方の拠点のひとつであったようだ。

 史料的に確認されるのは興国四年(1343/康永二年)に伊勢守護となった仁木義長が当城を攻めたことが初見らしい。この前年から足利方の軍勢による南朝北畠方への攻撃が激しさを増しており、本拠地の田丸城をはじめとする南伊勢の南朝方の諸城が落城している。国司北畠氏自体も山間の多気(霧山城)に本拠を移したのもこの時期のことである。当城もこの一連の戦闘で落城したものと思われる。

 近年では室町期に北畠氏被官の五箇氏が当地域を本拠地としていたと考えられている。この五箇氏は文明年間(1469-87)に北畠氏に背いたことで滅ぼされ、その後に野呂氏が入部したものと見られている。

 さて、戦国の世も激しさを増した永禄十二年(1569)、織田信長による伊勢攻略も北畠氏攻めで最終段階を迎えつつあった。北畠氏の主力は大河内城に籠城して織田勢との戦いに備えたが、五箇篠山城主野呂越前守源実は二見付近に出撃したことが伝えられている。おそらく、織田方に付いた志摩の九鬼氏に備えたものと思われる。源実は一族郎党を率いて九鬼勢と交戦、大いに武名を上げたが、神宮関係の土豪衆が九鬼方に寝返ったために腹背の敵に苦戦して終には源実以下一族の主たる者たちは皆討死したという。

 野呂氏が壊滅して無主となった五箇篠山城には北畠家臣の安保大蔵少輔直親が入ったとされるが、城は維持されることもなく荒廃したものと思われる。

 天正四年(1576)、三瀬の変(三瀬館)で北畠氏が滅ぼされると、北畠具教の弟で奈良興福寺東門院院主が還俗して具親と名乗り、北畠氏再興の兵を挙げた。翌年、具親は伊賀から伊勢に入り、三瀬谷、川俣谷、多気、小倭近辺の北畠旧臣を結集して森城(松阪市飯高町)を拠点としたが、北畠信意(織田信雄)の軍勢によって周辺諸城を落とされて孤立、やむなく脱出して安芸毛利氏を頼って備後鞆に逃れた。

 その具親が天正十年(1582)の本能寺の変後に再挙を期して伊勢に戻って来たのである。この時に具親を迎え入れたのが安保直親であった。直親は冬空のもと急遽、荒廃した五箇篠山城を改修して北畠氏再興の拠点としたのである。諸書によれば大河内城下を放火して五ヶふる城に取り入ると記されているようだ。ふる(古)城と記されているということから、それまでは荒廃状態にあったということであろう。

 年明け(天正十一年正月)と同時に織田信雄の軍勢による城攻めが始まった。山城とは言え、独立丘陵であるから包囲されれば逃げ道はない。城は二日で落城、安保直親ら旧臣の多くが討死して北畠氏再興の夢と共に潰えた。

 ところが、具親はからくも城からの脱出に成功して伊賀に落ち延びたのである。翌天正十二年(1584)、蒲生氏郷が南伊勢十二万石の太守として松ヶ島城に入ると、具親は客臣として迎えられたが、二年後に病没したという。

 五箇篠山城の落城に際し、具親の妃が夫の武具を纏って馬に乗り、堀に身を投げて夫を逃がしたという伝説があるという。


▲城址登城口。城址碑と説明板が設けられている。

 ▲城山登城口に建つ城址碑。背後の階段を上る。

▲同じく登城口に設けられた説明板。

▲城址説明板。来歴に関しては代々野呂氏の居城であったとだけ記されている。

▲登城口の道路を挟んだ反対側には郷土資料館併設の多気町立勢和図書館がある。

▲登城路である遊歩道から見下ろした駐車場。

▲登城路である遊歩道は山頂まで階段が整備されている。

▲山頂近くなると主郭が迫ってくる。

▲主郭切岸。遊歩道は主郭西側から南側へ回り込んでいる。

▲主郭への入口。

▲主郭虎口の枡形部分。

▲主郭。標高140m、比高60m、登城口からの距離250m、10分ほどである。主郭には土塁が巡らされている。

▲主郭から北方の展望。眼下に櫛田川が流れている。

▲主郭東側の土塁。

▲主郭から見たU郭方面。手前には二重堀切が存在する。城の構造は主郭を最西端にして東側尾根上に曲輪が連なる連郭式山城となっている。

▲U郭。城址の主郭とU郭は樹木が伐採されて遺構が確認しやすく整備されているが、V郭以降の曲輪は藪状態で簡単には踏み入れない。

▲U郭から見た二重堀切。中央の瘤状の高まりは削り残された部分とされている。

▲U郭から見下ろしたV郭との間の堀切。かなりの深さがある。

▲主郭からV郭にかけて曲輪の周囲にはい段下がって帯曲輪が巡っている。以上の遺構は天正11年(1583)の落城時のものと断定されている。
----備考----
訪問年月日 2015年12月29日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「三重の山城ベスト50を歩く」他

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