天武・持統天皇陵
(てんむ・じとうてんのうりょう)

            奈良県高市郡明日香村大字野口    


▲天武・持統天皇陵は古代の天皇陵としては最も信頼できる陵墓のひとつである。
(写真・天武・持統天皇陵)

夫婦で成し遂げた国家建設

現在、宮内庁はこの陵墓を「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として天武・持統天皇陵に治定している。治定が信頼できる陵墓が少ないなかで、この天武・持統天皇陵は過去に記された盗掘後(鎌倉時代)の文献が残されており、石室が二つあるなど墓室内の様子やその内容から両天皇陵であることが確定視されているのである。

天武天皇は乙巳の変(645)で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子の弟で、即位前の大海人皇子のことである。父は舒明天皇(在位629-641)であり、母は舒明天皇の皇后である。皇后は夫舒明天皇の後を継ぎ、即位して皇極天皇(在位642-645)となった。

乙巳の変で皇極天皇は譲位して弟の孝徳天皇(在位645-654)が即位した。国政は皇太子となった中大兄皇子が中心となって天皇中心の改革が推し進められた。大化の改新である。当然、大海人皇子も兄の改革を補佐したはずである。

孝徳天皇の後、皇太子の中大兄皇子は即位せず、母を再び即位させた。斉明天皇(在位655-661)である。斉明天皇の崩御(牽牛子塚古墳)後、中大兄皇子は即位して宮を大津に移した。天智天皇(在位668-672)である。天智天皇は皇太子時代から合わせて二十七年の間、国政の中心にあって様々な改革を断行した。公地公民制や班田収授法などがそれである。天皇という称号、日本という国号、大化という元号の制定も実施された。また、朝鮮半島への軍事介入、白村江の戦いの敗北による国防体制の強化(古代山城-屋嶋城鬼ノ城など)等、国家規模の土木工事も進められた。

天智天皇十年(671)十月、病に倒れた天皇は枕辺に大海人皇子を呼び、後事を託そうとした。しかし、大海人皇子はこれを固辞して出家、吉野へ隠遁した。天皇の子大友皇子に遠慮したのであろうか。十二月、天智天皇崩御。天皇と中臣鎌足による強力な専制体制は諸豪族らの不満を醸成させていたともいえる。

翌年(672)六月、大海人皇子は挙兵して諸豪族を糾合、大友皇子を攻めて自決に追い込み、滅ぼしてしまった。壬申の乱である。その翌年(673)二月、大海人皇子は古都飛鳥に宮を戻して即位した。天武天皇(在位673-686)である。

天武天皇も皇族中心の政治体制を構築し、律令の編纂(飛鳥浄御原令)、「古事記」「日本書紀」の編纂開始など中央集権の国家固めに邁進した。大臣を置かず親政を貫いた天皇であったが皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は終始天皇を助けて天下を安定させ、常に良き助言で政治の面でも輔弼の任を果たしたと「日本書紀」にある。

天武十五年(686)、天皇は病気にて崩御した。天武天皇と皇后讃良皇女の子草壁皇子が皇太子であったが、早逝したため皇后みずからが即位した。持統天皇(在位690-697)である。推古天皇、斉明天皇に次ぐ三人目の女帝である。

持統天皇は夫天武天皇の事業を引き継ぎ、その完成を目指した。飛鳥浄御原令の制定と施行、唐にならった藤原京の造営である。乙巳の変に始まった天皇中心の国家建設、それは大陸や朝鮮半島の国際情勢に耐えうるためのものでもあった。

697年、持統天皇はわが子軽皇子に譲位して太上天皇(上皇)となる。軽皇子は即位して文武天皇となる。

大宝二年(702)、上皇(持統天皇)崩御。火葬に付され、夫の天武天皇陵に合葬された。


▲天武・持統天皇陵。

▲飛鳥期の天皇陵であることを示す八角墳である。そして石室は天武天皇と持統天皇の棺と骨壺(持統天皇は火葬)を収めた二室となっている。

▲陵墓へ至る石段。

▲宮内庁管轄を示す立板。

▲天武・持統天皇陵は「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)と呼ばれる。
----備考----
訪問年月日 2022年12月6日
主要参考資料 「全現代語訳日本書紀」他

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