明応の頃(1492-1501)、土岐源三郎持益が美濃より遠江国上村に移り、さらに三河国植村に来住して植村氏を名乗り、松平長親に仕えた。徳川家康の直臣として名を馳せた植村氏の始まりである。
植村氏の始祖となった持益は美濃国守護土岐氏の流れではあるが、守護家嫡流ではない。源三郎持益が三河に来る五十年ほど前に美濃国守護であった土岐持益と混同されることがあるようだ。守護であった持益は池田二郎と称する別人である。だからといって全く関係がないわけではない。源三郎持益と池田二郎持益は祖父を同じくする従兄弟の関係であったらしい。
持益が三河へ来住して居館を構えたのがここ本郷なのであるが、本郷城跡(居館)は二ヵ所ある。北本郷町河原と東本郷町北浦である。距離としては600mほどしか離れていない。はじめ持益は河原に居館を構えたらしいが、子の新太郎氏義が交通の便の良い北浦に移ったと言われている。氏義も長親に仕えて出羽守を名乗り、年代的には清康にも仕えたようだ。氏義の娘が本多忠高に嫁して忠勝を産んでいる。氏義は本多忠勝の外祖父なのである。
本郷城で生まれた氏義の子氏明、通称栄安(よしやす)は松平清康に近侍した。栄安が十六歳の時、天文四年(1535)十二月、三河を平定した松平清康は尾張の織田信秀(信長の父)と対決するために尾張守山城へ陣を進めていた。ところがここで思わぬ事件が起きてしまった。清康が家臣阿部弥七郎の凶刃に斃れてしまったのである。清康に近侍していた栄安はすぐさま弥七郎を袈裟懸けに斬りつけて討取った。しかし、総大将を失った三河勢は撤収を余儀なくされ、三河へ戻って守りを固めることになった。世にいう「守山崩れ」である。
清康亡き後、栄安は後を継いだ広忠に仕えた。天文十八年(1549)三月、またしても主君広忠が岡崎城中で家臣岩崎八弥に刺殺されたのである。この時、城中にいた栄安は八弥を外堀端に追い詰め、組み合ったまま堀底に落ちた。そこへ槍を持って駆け付けた松平信孝が「八弥から離れろ。わしが突き殺す」と叫んだ。栄安は「離すと逃げてしまう。俺と共に突き刺せ」と叫んだという。信孝が躊躇する間に栄安は八弥の首を取ったと伝えられている。後日、衆人皆、栄安の言行を激賞したという。
奇しくも二代にわたる主君の仇を討ち、松平家中の誉れを得ることになった栄安であったが、天文二十一年(1552)に今川配下の松平勢として尾張沓掛城に進駐、織田勢との戦いで討死してしまった。享年三十三歳であったとされる。
栄安の戦死によって家督を継いだ栄政は家康に近侍した。永禄五年(1532)の清州同盟の際には家康の護衛を務め、その豪胆な振る舞いに感服した織田信長は行光の太刀二振りを与えたという。父に似て、主君に事あらばいつでも身命を投げ出す覚悟が人一倍であったのだろう。栄政は家康の家老となり、偏諱を許されて家在(いえさだ)と名乗った。元亀三年(1572)、信長と上杉謙信の同盟仲介役を務め、謙信から太刀と具足を贈られている。天正五年(1577)没、三十七歳であった。
家在の後、家次が継いで家康の嫡男信康に近侍した。信康切腹後は流浪の身となったが、榊原康政の推挙を得て上野国邑楽郡内に五百石を拝領して家康に仕えた。
家次の子家政は徳川秀忠に仕え、大坂の陣(慶長十九年/1614)で活躍して千石の加増を受ける。寛永二年(1625)には家光付となって三千五百石加増となる。その後も加増されて寛永十七年(1640)には二万五千石の大名に列し、大和国高取藩主となる。その後、移封されることなく十四代続いて明治に至った。
ところで本郷城はいつまで植村氏の居城であったのだろうか。代々、松平宗家に近侍したことから、栄安の時には岡崎城下の祐金(岡崎市祐金町)に移ったと言われているので、数十年程度ではなかったかと思われる。
明治期までは土塁などが残っていたようだが、現在では畑地、宅地となって遺構は消滅して何も見出すことはできない。城跡の南側の字古屋敷の阿弥陀堂前に「植村栄安生誕之地」の碑が建てられており、栄安が主君二代の仇を討ったことが刻まれている。
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